シリーズ被爆77年「進もう核禁への道」
5回目は日本被団協の新聞に40年に渡って連載された4コマ漫画の『おり鶴』さん。その作者で17才の夏、救援隊として爆心地に入り、凄惨な現場を目の当たりにした西山 進さん(94)の思いです。


【日本は憲法のおかげでどこの国の人を殺すこともなかった】
【ところが…】
【ことしはヒバクシャにとってたいへん重要な年だ。わかる】
【そういう意味でもう一本。ダメ】


「おり鶴さん」被爆者の全国組織・日本被団協の新聞に月一回、41年6か月、500回に渡って連載されてきた4コマ漫画です。

ことしの8月9日、1冊の単行本として出版されることになりました。

西山さんの交流証言者 調仁美さん:
「西山さんの漫画って見ててとても温かさを感じるんですね。あまりにもひどいことを体験したので『優しさ』が(絵に)出るんだろうなといつも思ってて」


『おり鶴さん』の作者、西山 進さんは今、福岡市の施設で暮らしています。


西山さん:
「こんにちは。いらっしゃーい」
「あー長崎は きょうも雨だった」

京都で生まれ、福岡、大分で育ち、就職先の長崎で被爆しました。
今は肺気腫を患って療養中…『おり鶴さん』の連載を卒業して1年がたちます。

西山進さん(94):
「大感激ですよ。よくぞ本にしてくれたと思ってね。だけど僕は、自信があるのは決して読んで暗くなったりするものじゃないから…必ず人の目に留まって、いい絵だなと思う人が出てくる。見る人を信じてるからね」

被爆講話にも取り組み、反核の声を上げてきた西山さん。『おり鶴さん』にはいつもクスリとさせる笑いを効かせました。

「んーっとそうね…」


雑誌や新聞の挿絵などでプロの漫画家として活躍してきた西山さん。

「こんな風よ…もうこんな風よ。こんな風しか描けんとよ、描けんとよ…」
震えが止まらなくなった手で描いてくれたのは、辛い思い出で埋め尽くされた長崎時代の自分の姿。


西山さん:
「三菱のマークをつけてね。描けんもう腕が上がらない。
戦争と原爆、長崎。僕の頭の中にはそれしかないもんだから…。絶対ああいうものは使わせてはならんと思うけど平気だもんね。鉄砲でも打つような気持でね、簡単に使う様な事言ってるけど、あれが落ちたら大変ですよ。本当」


西山さんが描いた被爆体験絵巻──全長8mに及ぶ「あの日のこと」
 (※収蔵:国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館)
17歳の時に被爆し翌日、救援隊として入った爆心地の様子です。


『長崎市飽の浦町の寄宿舎。鉄拳制裁の毎日で生きた心地がしなかった』
『11時2分閃光地鳴りのような爆風』
『稲佐橋を渡った所にまるでカクレンボでもしているかのような黒焦げの小さな死体があった』
『押しつぶされた死体。引き出そうとするとずるずると皮がむけた』


人間の大量虐殺現場──感情がなくなっていった17才

絵巻を描いたのは被爆29年後のことでした。情景が、頭にこびりついていました。


西山さん(2015年の取材当時83):
「10時ごろからお母さんを焼き始めてもう焼けたろうと、トタンをはぐってみたらまだ内臓がじゅくじゅく…あそこは一番遅いから。
僕の話は本当かな?と思いますよ。記憶が薄れてきてるから。俺、嘘言ってるんじゃないだろうか。そういう気もしますね。昔描いたものを読み戻してみると、やっぱり思い出すしね。ひどかったんだなって…」


被爆後、倦怠感に襲われる『原爆ぶらぶら病』を発症。病気と貧困の中、20才頃から福岡の炭鉱で働きました。
漫画家として独り立ちできたのは40才を過ぎてから。


そして、28年ぶりに訪れた長崎で原爆を語り継ぐことを決め「絵」の力で子供達に原爆を伝えてきました。
西山さんが作った「紙芝居」は今、交流証言者の調 仁美さんに受け継がれています。


(2022年7月22日 長崎市内の小学校で紙芝居を読む)調さん:
「はらわたの飛び出した死体、やけぼっくいの様な真っ黒な死体…」
「8月10日の様子は今でも瞼の裏にこびりついて離れません。これが原子爆弾でした」


小学2年生:
「倒れて死んでいた人がかわいそうだった」
「紙芝居で見てみたら、死んでいた人が赤かかったから。あってはならないことだと思いました」

交流証言者・調仁美さん:
「ジーって子供達が向けてくる目、目を見るとこっちが緊張してくる様な感じがしますよね。西山さんの絵をもっと伝えていきたいなという思いはありますね。
調ちゃん頑張ってって。任しときって言ってるから…任されてるから頑張ります」

西山さんから調さんへの絵手紙。「戦争の火種」の消火活動。
西山さんの絵はいつも優しくて一生懸命です。

【クリスマスプレゼント ゲームかな?現金かな?】

【そんなちんけなものじゃない】

【ウヒョー】

平和への願い、政治への憤り、世相を反映しながら進んだ西山さんの『おり鶴さん』
核兵器がもたらした苦しみと、核兵器廃絶への思いを共にしてきた被爆者の歩みと願いが込められています。

西山さん:
「やっぱり消えんとよ。あの惨状は消えんとよ。いくら消しゴムで消したっちゃつまらん(=ダメ)。
絶対、核兵器廃絶の道を閉ざさない様にやらないと。どうかすると『日本も撃つくらいよかろう』くらい思ってさ。『使ってもよかろう』という考えの人間が多くなってるからね。核兵器を簡単に使うようになったら終わりよ」

【2022年10月6日追記】
西山進さんが、10月6日 午前、福岡市内の病院で心不全のため亡くなりました。
94才でした。
謹んで、お悔やみを申し上げます。