シリーズでお伝えしている被爆77年『進もう核禁への道』の2回目です。
今年の平和祈念式典で平和への誓いを読み上げる、被爆者代表の宮田 隆さん(82)。
代表に決まった直後は様々な ”怒り” を前面に示したいとしていましたが、今年6月の『核兵器禁止条約 第一回締約国会議』に合わせて現地を訪れ、考え方が変わったといいます。
■ ロシアの核の恫喝で世界は曲がり角に…

被爆者 宮田 隆さん:
「 ”生かされた怒り” だな。妙な言い方だけど…。死んでおけば もうそのままだったけども、生きて色んなことを知ると ますます ”怒り” が出てくる」
ことしの平和祈念式典で被爆者の代表として「平和への誓い」を読み上げる雲仙市在住の被爆者 宮田 隆さん、82歳。
当初、誓いに込めようしていたのは ”怒り” の感情でした。
宮田さん:「日本の立場に対する怒り。相変わらず日本は(核の)傘でしょ?しかも核の脅威が(ロシアの)威嚇によって、恫喝によって世界がぐらっと変わったわけね。その曲がり角に今年はある。極端に言うと”戦争”か”平和”か。人類に突きつけられていますよね」

宮田さんは5歳のとき、爆心地から2.4キロ離れた立山の自宅で被爆。幸い大きなけがはありませんでしたが、今でも忘れられない光景があるといいます。
その日の夕方でした。
自宅に1人の女性看護師が訪ねて来ました。皮膚は焼けただれ、ぼろぼろの白衣を身にまとっていたといいます。

被爆者 宮田 隆さん(2013年取材):
「たぶんこの山を超えてね、とぼとぼ歩いてきたんじゃないの?『水をください』って言ってた。おふくろは『水をください』っていうから、井戸から水を汲んで飲ましたらさ。口を…飲んだかどうか覚えていないけれども、水をつけた途端に、バタンと倒れた。そのあと、どうしたかは知りません。子供にはあまり見せなかったと思う。多分そこで死んだんでしょうね…」
■ 念願だった『平和への誓い』

大学卒業後、大手電機メーカーに就職した宮田さんは、定年退職を機に小浜町に移り住み、平和活動を開始。


原子爆弾の実物大の模型は自費で制作しました。
平和祈念式典で『平和への誓い』を述べる被爆者代表には、2017年から毎年、立候補してきました。

長崎市式典担当者「ことしの代表者は宮田 隆様、長崎県雲仙市在住、82歳に決定をいたしました」
今年5月、宮田さんは念願だった代表に決定。
その際、口にしたのは──
・核兵器禁止条約に参加しない日本
・ウクライナ侵攻で核兵器の使用も示唆したロシア
・それに乗じた核共有論
それぞれに対する被爆者としての「怒り」でした。

代表決定後、リモートでインタビューに応じる宮田さん:
「核兵器でもって世界の平和が構築できますか?それは僕は非常に怒りを感じるんです。『(攻撃に)無防備であれ』とは言わないんですよ。自衛隊がありますから。まだわからんのかと。あの被爆の実相をみんなが共有しなきゃいかん。だから僕はそういう面の ”怒りの平和への誓い” なんです。僕は。」

今年6月3日、宮田さんは怒りを抱えたまま、オーストリアのウィーンを訪問する準備をしていました。