被爆地長崎から核兵器の非人道性を訴えるシリーズ「NO MORE」。
今回は御年100才の女性です。22才で被爆し、極限状態を生き抜いてきた吉村光子さんの貴重な証言です。(第2回 / 全3回)

第1回「人間は欲たらしい。生きたってことがあんなに嬉しいなんて」両親との死別・被爆・死産と流産 100歳 吉村光子さんの壮絶人生
殺してくれー…毎日 人が死んでいく

22才のとき、7万人の死の中を生き延びた吉村光子さん(100)。

吉村光子さん:
「『帰る家がない』って言ったら『ここにおって手伝ってくれるね』って言われて、大学ノートと鉛筆と5円札いっぱい積んだのを渡されて、家族を探しに来た人の受付をしたんです。
名前が分かれば住所を控えて5円札を渡して下さいって言われて。夕方はけが人の世話」
「『殺してくれ!』っていうものばかりですよ。『殺せー!殺してくれー!っ』触れられるところもないじゃないですか、火傷で。着るものも散り散りでないんですよ。ほとんど裸、男も女も一緒くた。…苦しんで亡くなっていくんですよ。
それをカーテン引きちぎったのに転ばして4~5人載せて、四隅を抱えて広場に運んで、油かけて一晩中燃やして。翌朝は私達がバケツに骨を拾って積んでいくんです」
せっかく助かった命も
「親戚は誰も見つかりませんでした。カワチのおばさん(母の妹)が半身やけどで諌早までトラックで送られて、出身地の別府で治療してもらったことが後から分かったんですけど。子ども、男の子4人は全員、死んでしまった」
おばさんの長男は私と同じ(三菱)兵器で働いていましたからね。明治大学出て技術部にいたキヨツグ兄さん。その人は死体もとうとう分からなかった。どこで死んだのか、兵器には間違いないんですけどね。次女・三女は駅前におって助かったけど、肺がんで死にましたもんね。原爆の影響でしょうね。
子ども全員そんなして亡くなって、おばさんは大学病院の3階から飛び降りて死にました。せっかく助かった命だから『おばさんだけは生きとってくれんね』って一生懸命尽くしたけど。
夜中に這い出して3階から飛び降りてあくる日になって気づかれて。原爆から8年くらい経っとたんですけどね」