信じ続けた奇跡…しかし
その日から私と主人は仕事を休み、日中は私が、夜中は主人が付き添うという24時間付きっきりの看病の生活が始まりました。弟はおばあちゃんの家に預かってもらって、私と主人は、病室に畳1枚だけ敷いてもらって、その上で交代で寝泊まりし、看病を続けました。
いつか必ず奇跡が起きて、貴弘が目を覚ます日が絶対に来るんだということを信じていました。それだけを願いながら看病を続けました。でも貴弘の体は日に日に痩せていきました。そして全く動こうとしない手や足が、日に日に細く硬くなっていきました。

でも私は、一日中ひと時も惜しまず、貴弘の手や足のマッサージを続けました。もし目が覚めたときに一日でも早く歩けるようになってもらいたいという思いからでした。そして、当時は今と違って、法律で15歳以下の脳死の判定はされることがなかったので、おかげで病院から脳死の宣告はされませんでした。しかし、おそらく病院側はたぶん脳死という扱いだったんだろうと思います。なぜなら積極的に治療されることがなかったからです。
でも貴弘は時々ぴくっと体を動かします。それから排泄もします。そして髪の毛や、手や足の爪も伸びます。医学的には脳死だったかもしれませんが、私たちにとっては紛れもなく貴弘は一生懸命生きていてくれました。だから声を出したり、顔や手や足を動かすことはできなくても、きっと私たちの声や周りの音は聞こえている。脳に届いていると信じて、友達からもらった手紙を読んで聞かせたり、大好きだったゲームの音楽を何度も何度も聞かせました。そしてきっといつか必ず目を覚ます日が来ると信じて、祈り続けました。
快復への希望…襲ってくる不安…
また私の周りの多くの人たちが心を込めて折ってくれた千羽鶴は、いつしか一万羽を超えて病室中に飾り付けられました。そうやって目を覚まそうとしない貴弘との時間が2か月、3か月、4か月と経っていきました。そしていつしか年が明け、2002年から2003年へと変わりました。
貴弘の状態は決して安定した状態ばかりではありませんでした。何度も何度も死の淵に立たされ、突然心臓が止まってしまって、電気ショックによってどうにか戻ってくるということもありました。また、体の血液が足りなくなってしまい、輸血も何回もしました。こういったことを繰り返すうち、私たちがどれだけ強い希望を持っていたとしても、もしかしたら貴弘は私の元から離れていってしまうのではないかという不安もいつも心のどこかに持っていました。

そんなある日、私は、友人からある新聞記事のことを教えてもらいました。それには小学校1年生の時に交通事故に遭って、ほぼ脳死状態になった男の子が人工呼吸器をつけながら生き続けて、今年二十歳を迎えたという事が書いてあるのです。
とっても驚きました。そしてその記事に書かれている人を探し出して、ここ石川県に住んでいるということを突き止めたのです。そして私は、その子のお母さんと電話で話をすることができました。くじけそうな心のうちを泣きながら一生懸命話しました。そうするとそのお母さんは「まだ4か月しか経っていないんだから絶対に諦めないで」と私を励ましてくれました。そして、「中学校はどうするの?行けなくても、学校の先生に来てもらうことはできるんだから、諦めないで。先生にもお願いしてみたら?」とそういうことも教えてくださいました。
その言葉を聞いてくじけそうだった私の心に一筋の希望と光が見えるようなそんな気がしました。