大正ロマンの旗手・竹久夢二も憧れたスター選手・河野

1905年(明治38年)、早稲田大学在籍当時、アメリカへ野球遠征した河野は、チームのエースとして各地の試合で奮闘、その鉄腕ぶりは「Iron Kouno」(アイアン・コウノ)のニックネームがつくほどでした。今ではピッチャーの投球フォームとして当たり前の「ワインドアップ」を日本へ伝えた人物でもあります。

竹久夢二が描いた絵が陶板に写し込まれている

加賀市大聖寺耳聞山町に建てられた顕彰碑とモニュメントには、河野の顔の絵とともに野球選手を描いた一枚の絵が陶板に写し込まれています。その作者は「大正ロマン」を代表する画家・竹久夢二です。

これは、岡山県の美術館に所蔵されているものを借りて作成されました。

大正ロマンの旗手・美人画で有名な夢二が、なぜ野球選手の絵を描いたのでしょうか。その背景には、夢二自身のスポーツへの深い愛がありました。夢二が初めて出版した画集の前書きにも河野安通志のことが書かれています。

夢二画集春の巻より「河野君があの赤いジャケツをきてプレートに立つて球を投げてゐた頃でした。私は學校をエスケープしては、運動場の若草のうへに寝転んで、早稲田に連なる目白一帯の高原を眺めて色深い空にただよふ白雲に、どんなに遠き思を寄せたことでせう。」

夢二画集春の巻 真ん中あたりに河野の名前が見える

その続きは、有名な一節「私は詩人になりたいと思つた。けれど、私の詩稿はパンの代わりにはなりませぬでした。ある時、私は、文字の代りに繪の形式で詩を畫いてみた。それが意外にもある雑誌に発表せられることになつたので、臆病な私の心は驚喜した。」

夢二と河野は、1884年(明治17年)生まれの同い年。学生時代の夢二にとって河野は憧れのスター選手だったことが分かります。