愛媛県は、発見翌月の1978年12月、当時の厚生省に遺骨の調査と引き揚げを要望しましたが厚生省は引き揚げに難色を示します。

県の文書には、厚生省側の態度について「機体を引き揚げる意志は毛頭ない」とも記されていました。厚生省側は、「遺骨の収集は国の責任だ」とした上で、潜水調査の結果などから遺骨が機体に残されている可能性が低いとして、引き揚げはできないと県に伝えました。

(愛媛県の元幹部・藤原茂さん)
「国の方もはっきりしないんで、国は『遺体があって遺骨があったら国の仕事だ』と。ところがそれも無いようだと。だから国はやらないと、こういう形でね、そこでゴタゴタしとってね」

結局、機体の発見から約8か月後の1979年7月、県が単独で引き揚げました。

(愛媛県の元幹部・藤原茂さん)
「(引き揚げて)良かったと思う。6機が帰らなかった戦争があったと。しかも豊後水道の日本国内ですよね。やられたのが」