77年前の8月17日、旧樺太、いまのサハリンで、看護師23人が集団自決を図り、そのうち6人が亡くなりました。
 終戦を迎えたにもかかわらず、彼女たちは、なぜ自ら死を選んだのか、同じ世代の記者が取材しました。

泉優紀子 記者(29)
「札幌にある護国神社です。こちらの慰霊碑には、ある6人の若き女性たちの名前が刻まれています」

 亡くなった6人の看護師は、17歳から32歳。生き残った看護師が残した手記があります。

生き残った看護婦が残した手記

鳴海寿美さんの手記
「自決することの恐怖感といったものは、特別無かったように記憶しています」

 手記を書いたのは、当時、副婦長だった鳴海寿美さん。8年前に亡くなりました。
 手記を書いた寿美さんの次男。北海道新冠町の鳴海修司町長です。

北海道新冠町 鳴海修司町長

寿美さんの次男 鳴海修司新冠町長(71)
「手首に光る白い筋が残っていた。『それ、どうしたの』って聞くと、『ちょっとね』って感じで。あとから聞くと、『話したくなかった』と。『私はそのまま死ぬまで持って行きたかった』と」

 樺太で当時最大の産出量の炭鉱があった、人口およそ4万人の恵須取(えすとる)。自決した看護師たちは太平炭鉱病院で働いていました。

太平炭鉱病院で働いていた看護師たち

 1945年8月9日、ソビエト軍は日ソ中立条約を破り、樺太に侵攻を始めます。
 終戦翌日の16日未明、ソビエト軍は恵須取を爆撃。
 看護師たちは運び込まれるけが人の手当を続け、避難したのは夕方でした。

鳴海寿美さんの手記
「患者さんの枕元に治療薬を配置し、再会を約束して壕を出、追い立てられるように神社の山へ登ったのです」

 夜の10時ごろ、噂が飛び込みます。
 ソビエト軍が近くまで迫り、行く手が阻まれたというのです。