優しかった兄の“思い出”

黒木少佐の妹、岐阜市に住む丹羽教子さん。兄の思い出を今も大切にとってある。黒木が妹教子さんに作った、紙のひな人形だ。

(黒木少佐の妹 丹羽教子さん)
「買ってもらえないですから。貧乏で。手作りですよ。兄が6年生のときに作ってくれた」

戦争が終わると、特攻兵器を作った兄を責める声もあったという。

(黒木少佐の妹 丹羽教子さん)
「国を思う気が人一倍強かったと思う。ただ兄だけではなくみんながそうだった。国の情勢を眺めてきたときに1対1では戦えないから、1対10になるように何かできないかなと思ったとしか思えない。誰も死にたくないですよ。それでも両親のために戦ったことを永久に伝えていきたい」

回天を搭載し、出撃する潜水艦の写真が残っている。搭乗員たちは何を思っていたのか。

「野球選手が正選手になって活躍できる」という気持ち

山口県周南市、大津島。別名、「回天の島」。ここで、搭乗員の訓練が行われた。

元回天搭乗員の岡本さんは毎年、この島に足を運ぶ。今も残るコンクリートの建物は、回天の発進場所。開発者の黒木少佐が、訓練中に殉職したのも、この海だ。島の中には、戦没者の名前が刻まれた石碑がある。

(元回天搭乗員 岡本恭一さん)
「よくぞやったという気持ち」

岡本さんの胸に浮かぶのは「死んでいった者への憧れ」と、「自分が出撃できなかったことの後ろめたさ」か。

この島にある回天記念館。その隣には回天のレプリカが展示されている。

(元回天搭乗員 岡本恭一さん)
「運転しているときは計器しか見えない。真っ暗の中で。裸電球がついているだけ」

(元回天搭乗員 岡本恭一さん)
「ハッチが閉められたときは何ともいえない気持ちになる。孤独感におそわれる。出撃したくて、『次の出撃組だな』と励ましあっていた。出撃したかった。野球の選手が正選手になって活躍できるという気持ちですかね。死ぬということ。そこまでは実感できていなかった。」


【後編】「6号艇発動」出撃し生き残った男性の葛藤 人間魚雷“回天”