ロシアのプーチン大統領が、来年3月の大統領選挙への出馬を宣言し、去年は見送られた国民対話も復活させました。いよいよ選挙戦が本格化しますが、圧勝が約束された茶番劇だとも見られています。民主的なはずの選挙の裏側で何が起きているのでしょうか。プーチン氏を支えた元側近で、大統領選への出馬を阻止された経験を持つ首相経験者に、プーチン氏の選挙の裏工作の実態を聞きました。

ロシア元首相 カシヤノフ氏
「2000年の大統領選で私が支持した若くてエネルギッシュなプーチンは、エリツィンが始めた改革をこれまで以上に推進すると確信していました。この時の選挙は“本物の選挙”でした」

最初は民主的な選挙でプーチン氏は選ばれたと語るのは、第1期のプーチン政権で首相を務めたミハイル・カシヤノフ氏。ナンバー2としてプーチン大統領を一番近くで支えていましたが政策面で対立するようになったと言います。

ロシア元首相 カシヤノフ氏
「2003年末になると、プーチン氏は、改革の適任者ではないとはっきりと考えるようになり、公の場で対立しました。私達が期待していた目標をプーチン氏は目指していないと思うようになったのです」

2004年に、カシヤノフ氏は首相を解任されました。そして、その年の9月に起こった“ベスランの悲劇”をきっかけに“反プーチン”に転じます。チェチェン人の武装勢力が、北オセチア共和国のベスランで学校を占拠した事件で、子どもを含む320人以上が犠牲になりました。

プーチン氏はこの事件を受けてテロ対策を強化。更に、国の統一を確保し結束を強化すると訴え、政治的に利用したとカシヤノフ氏は指摘します。

ロシア元首相 カシヤノフ氏
「政党の再登録を強制し、政党の数を45からプーチン氏の仲間がコントロールする7つに減らしました。改革の巻き戻しです。人権保護団体関係者も外国のスパイとしてみなされるようになり、圧力がかかるようになりました。私は理解ができませんでした」

政権の2期目が始まると間もなく、早くもプーチン氏は独裁色を強め始めたと言うのです。
そしてカシヤノフ氏はプーチン氏に対抗することを決意。2008年の大統領選に出馬を目指す野党候補になりました。当時の憲法は3選を禁止していたので、プーチン氏はメドベージェフ氏を後継指名。「院政」への布石と見られました。

ロシア元首相 カシヤノフ氏
「エリツィンの民主主義改革やプーチン政権第一期の成果を台無しにすることを阻止出来ると思っていました。そのため、仲間とともに大統領選に立候補する決断をしたのです」

当時のロシアの法律では、議席を持たない政党から大統領選に立候補するには、200万の署名が必要でしたが…

ロシア元首相 カシヤノフ氏
「署名活動から1か月経つと、特に大都市では私の支持率が向上しました。12月の初めは6%でしたが1月中旬には18%になりました。私がメドベージェフに勝利する可能性があると政府は考えるようになり、私達もメドベージェフに勝てるという確信がありました」

ところが…