62年前の消雪パイプ誕生の現場に立ち会った長岡市の職員は2004年、亀川純一さんに寄せた文章で『38豪雪』をこう振り返っています。
『坂之上一丁目の実験道路も雪の山になったが、地下水を流しておくと朝方には路面から水蒸気があがって、実験施設のあるところだけは黒々とアスファルト道路が顔を出していた。地下水の融雪威力が発揮され、実験は成功だった。冬期間の市民生活に光明を与え、雪国生活を大きく変える端緒となった』
市議会議員だった今井与三郎さんは1964年に消雪パイプの実用新案権を取得。翌年、権利を譲り渡された長岡市は市外に設置する場合に“特許料”を取っていましたが、1969年に無償で設置できるようにしました。

こうして積雪があるエリアで消雪パイプの普及が進み、現在、長岡市内の道路だけで官民合わせておよそ1002キロ。長岡から鹿児島までの直線距離とほぼ同じと、全国トップクラスの長さとなりました。
高度経済成長とともに誕生し60年余り…情熱は現在にも
県立歴史博物館の田邊幹さんは、消雪パイプが生まれた時代の背景には産業の発展に伴い、人やモノの移動が活発になったことがあるとみています。

県立歴史博物館 田邊幹 専門研究員
「昭和20年代後半から『高度経済成長』と言われる日本の経済成長が始まる。その中で全国的にモータリゼーション、特に産業面でトラックに運送、運輸を頼るという時代がやってくる。そういった社会の変化によって、雪国であっても冬に、雪に出来るだけ影響されない生活を求める必要が出てきた」
消雪パイプが誕生した1960年代は交通網を整備する必要性が高まるのと同時に道路の舗装が進み、消雪パイプを設置する条件が整ってきた頃でもあったそうです。