関ケ原の前哨戦 戦況は…

当時、家康方の東軍と石田光成方の西軍が、天下統一を賭けた合戦を繰り広げていました。

当時、岐阜城の城主は、清須会議で信長の後継ぎに担ぎ上げられた孫の、「三法師」こと織田秀信。

「岐阜城の戦い」は、西軍・秀信が守る岐阜城を東軍が総攻撃で攻め落とした合戦で、天下分け目の関ヶ原の前哨戦ともいえる戦いでした。
書状は、この岐阜城の戦いと関ヶ原の戦いの間の9月7日に出されました。

県公文書館資料課 細川精樹課長:「おそらくなんですが、家康の味方の武将にそういう手紙を送ることで、家康についていた方が有利ですよということを表すことで、味方に対するつなぎ止めみたいなことも考えられます」
家康が天下取りに大きく近づいたことが感じられるこの書状。実は、本人の直筆は「花押」と呼ばれるこのサインのみなんです。

県公文書館資料課 細川精樹課長:「こういう書状の場合は、『右筆』といって代筆をする人が側ににいます。家康の名前までが『右筆』の人、この花押で家康のものだってわかって家康が発行した正式な書状ということになるわけですね」

書状は、高岡市の収集家から県公文書館に寄贈されたもので、10月正式に家康の書状と確認されました。家康の書状は、12月22日まで特別公開されています。