生産量100万トンを目指した昭和30年代
戦後の食糧難を克服すべく、コメは増産時代に入ります。
1958年(昭和33年)の新潟県のコメ生産量は74万7000トンで、全国1位となっていました。当時、全国の生産量が1168万9000トンですので、新潟米の全国シェアは6.4%、日本国民の約16人に1人が新潟米を食べていたという計算になります。
『生産量100万トン』をスローガンに、新潟米は年々増産されていきます。

一方で、昭和30年代半ばから日本は『高度経済成長期』に突き進みます。
この頃から農家の働き手であった男性が出稼ぎや農業以外の職業に従事したため、老年男性と老年女性と主婦、すなわち「じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん」によって農業が営まれる『3ちゃん農業』という言葉が生まれました。
しかし専業農家は減っても、トラクターや田植え機など農業の機械化や肥料・農薬の投入などが劇的に進み、1反当たりのコメの収穫(反収)は伸びていったのです。

そして、新潟のコメの生産量は1968年(昭和43年)には、目標だった100万トンにあと一歩の96万5000トンになりました。
しかし、この数字を超えることは2度となかったのです。