呉で見た「パッと広島の空が光った」それが何かは分からなかった

そんな中、迎えた1945年8月6日。
(川畑章さん)「広島に原爆が落ちた折にパッと光がきたんです」

広島市に原爆が投下された時、川畑さんは20キロほど離れた呉市にいました。遠くに光は見えたものの、それが何かは分からなかったといいます。
(川畑章さん)
「入道雲が出たんです。何か広島に悪いことがあったという気配はしました。火薬庫かなんかがやられたように思うとりました」

基地の中で終戦「失った友人のことは忘れられません」

(玉音放送)「耐えがたきを耐え…」
そのまま、基地の中で終戦を迎えた川畑さん。苦しみは戦後に待っていました。翌月、故郷に帰ったあと、初めて友人や知人がフィリピンで戦死していたことを知ったのです。
(川畑章さん・100)
「(村から志願兵として)私と一緒に2人出たんですけど、2人とも戦死して私だけ生きとって、息苦しいなと思った。私だけ生きて帰って」

生き残ってしまった…。戦後、同じように戦争で大切な人を失った女性と巡り合います。妻の笑子さん。兄を亡くしていました。
(妻・笑子さん・96)
「兄妹ですもんな。悲しかったわな」

今100歳 多くの孫、ひ孫に囲まれながらも。。。
戦後は、岡山県の吉永町役場に務めた川畑さん。笑子さんと苦しみを分かち合いながら生き、子宝に恵まれ大勢の孫やひ孫も生まれました。しかしその中でも、失った友人のことは忘れられません。

100歳を迎えた川畑さんには、伝えたいことがあります。

(川畑章さん・100)
「戦争はみんなを苦しめるだけの戦いであって、戦争はせん方がええと思いますな。戦争はしない時代にならにゃあダメですな」