原爆の投下からまもなく77年、被爆者の悲願だった核兵器禁止条約の第一回 締約国会議がいよいよ今月21日に始まります。
開催地は日本から9,000キロ離れたオーストリア。
現地に渡る人々を取材すると『大きな転換点』にある ”被爆地の今” も見えてきました。
■ "記憶"のない高齢の被爆者

宮田 隆さん「…完成!」
ビブスに大きく手書きで記した英文は
”HIBAKUSYA ! NAGASAKI Any Question? (長崎の被爆者です 質問はありますか?)”
ことしの平和祈念式典の被爆者代表に選ばれている宮田 隆さん、82才です。
日本が条約への不参加を表明する中、この『被爆者ビブス』をつけてオーストリアへ渡航し、核兵器廃絶を訴えます。

被爆者 宮田 隆さん (82):
「日本の顔、首相が行かないのは非常に寂しい。こういう機会を与えて頂いたことが私自身の使命でもある。ミッションだ」
原爆の投下から77年を前にようやく動き出す『核兵器禁止条約』。
初めての締約国会議にあわせ、長崎からも被爆者や市長、大学生らが現地に渡ります。

1歳半の時に被爆した川副 忠子さんは、当時の記憶は全くありません。しかし母親から聞いた惨状や、傍で見てきた苦しみを、締約国会議 前日の6月19日、NGO企画「Meet the Hibakusya(ミート ザ ヒバクシャ)」で訴える予定です。
被爆者 川副 忠子さん (78):
「動ける世代が私達 ”記憶のない世代” になってきていると、訴える力も弱いのかな、という思いはします」
■ 傷を曝し 訴え続けた 被爆者の悲願『核兵器禁止条約』

核兵器禁止条約の『種』が生まれたのは1996年、オランダ・ハーグの国際司法裁判所でした。
長崎・広島両市長の陳述などを元に『核兵器の使用・威嚇は国際人道法 違反』であるとする勧告的意見が出されたのです。

伊藤 一長 長崎市長(1995年当時)は、法廷で黒焦げとなった少年の写真を示し
「この子供たちに何の罪があるのでしょうか?この子らの”無言の叫び”を感じて欲しいのです」と訴えました。
被爆者は様々な国際会議で核兵器の『非人道性』を証言しました。

故・谷口稜嘩さん(享年88)は、2010年、NPT再検討会議が行われていたアメリカニューヨークの国連本部で、原爆の熱線で焼けただれた自らの赤い背中の写真を手に訴えました。

「モルモットじゃありません。もちろん見世物でもありません。でも私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで もう一度見て欲しい」
傷を曝しながらの訴えは国際社会に『ヒバクシャ』を認知させ、条約の誕生を後押ししました。
しかし立役者である人の多くは、”核兵器禁止条約”の成立を見ないまま鬼籍に入りました。