女子やり投で日本人初の世界陸上2大会連続メダル獲得に挑む北口榛花(25、JAL)。旭川東高時代の指導者だった松橋昌巳さんと、同級生だった朝倉由香さんにお話をうかがった。北口は高校3年時に世界ユース選手権(現U18世界陸上)で優勝するなど、当時から突出した競技力があった。技術的に当時と現在は、どこが違うのか。そして普通の進学校の陸上競技部で、北口はどんな高校生活を送っていたのか。北口の高校時代の一端を紹介する。

松橋さんの語る高校時代の技術と、北口の語る今の技術

松橋昌巳さんは高校教員を定年退職しているが、教員生活最後の3年間に指導をしたのが北口だった。旭川東高は進学校で、陸上競技部も強豪とは言えなかった。それでも松橋さんのもとでは国体入賞者や全道チャンピオンが育ち、全国大会出場者は何人も現れていた。

その旭川東高時代に北口はU18世界陸上金メダル、インターハイ2連勝、そして58m90の高校記録樹立と、突出した存在になった。高校3年時の映像と昨年の世界陸上オレゴンの映像を、同時に再生するソフトを使って松橋さんが分析すると、北口の助走のピッチはほとんど同じだった。「助走スピードが上がっているとすれば、それはストライドが大きくなった、ということになります。ピッチ自体は8年前と差はありません。大きく違うのはやりの(投射)角度ですね。高校の頃は、他の高校生よりは高かったですけど、今の方が圧倒的にやりに高さが出ています。今の方が上体が反ることができている。(そことも関連して)最後の構えで左脚のブロックが、今はヒザが伸びていますが、高校時代は曲がっていました。今の方がパワーが段違いにあるので潰れなくなった」

高校時代と世界陸上オレゴンの映像を比較する松橋昌巳さん

やりの角度とブロック時のヒザについて、8月7日の取材で北口は「左脚は今もそんなに良くないんです」と話した。「耐えられなくて、すごく曲がってしまうことがあります。そこは調子の良し悪しが現れるところです。67m04(の日本記録)を投げたときは、上手くやれています。63~64mであれば、少し接地が遅くてもそのくらい飛ぶこともありますが」

やりの投射角度については北口も、松橋さんの指摘に同意していた。「高校のときはライナー気味の投てきが多かったですね。大学に入って体を大きく使うため、体を横に向けて投げ始めました。腕の力がやりに伝わるようにスタート位置を変えたので、それに合う角度に変わっていったのだと思います。遠くに投げるためには角度はすごく重要な要素になる」

現在ウエイトトレーニングの量を少し減らしているが、その理由は体に硬さが出てしまうからだという。上体の反り方や肩の柔軟性を上手く使うことで、やりの角度を調整したいと考えている。「ウエイトトレーニングの割合を減らして、体がフリーに動く状態を作るようにしています。昨日の試合(ドイツのオッフェンブルクで61m88)は体が少し硬い状態でした。自分の武器である体の軟らかさを出して世界陸上に臨みたいと思っています。(2位と敗れた日本選手権では)上体が前のめりになっていて、水平ラインの先を見てしまっています。調子が良いときの投げは、投げのタイミングで上を見ています。視線を調整することで良い投げができると思って意識しています」

高校を卒業して8シーズン目。北口は数え切れない技術を試行錯誤して、今の投げ方
に至っている。だが基本となる大きな部分は、高校時代の課題を修正する形で今日まで来た。

同級生が語る北口の素顔は?

昨年の世界陸上オレゴンから凱旋帰国し旭川市役所に挨拶に行った際、北口に抱きついて花束を渡した女性が朝倉由香さんだ。幼稚園、小学校、中学校、高校と北口と同じ学校に通っていた。クラスが別々になったこともあったが、小学校時代は一緒にリレーを走った。中学では北口が水泳をメインに行っていたが、中学から陸上部だった朝倉さんが高校では北口を陸上部に誘い、3年間同じ釜の飯を食べた。「小学校の体育祭のボール投げでもすごかったですね。距離はわかりませんが次元が違いました。でも短距離では、小4のときに私が一度だけ勝ったことがあるんです。リレーの選手を決めるためにタイムを測った時でした。榛花はバドミントンや水泳の全国大会で活躍していたので、私はその榛花に勝ててうれしかったですね。でも榛花は『私は全力を出していないから』と、負けず嫌いな面を当時から見せていました(笑)」

朝倉由香さん

ちなみに松橋さんも、北口のすごさを最初に認識したのが、先輩投てき選手と行ったキャッチボールだったという。高校時代は北口が投てき、朝倉さんは短距離と、ブロックが別だったので同じ練習はほとんどしなかった。だが短距離選手の数が少なかったため北口もリレーチームに加わっていた。他チームの選手たちからから「リレーを走っているの北口さん?」という反応があったという。「一度4×400mリレーでバトンをつないだことがあるんです。あのときの榛花の苦しそうな顔は、今でも覚えています(笑)。『もう絶対に走りたくない』って言っていましたね」

北口も高校時代を、次のように振り返っていた。「松橋先生に出会わなかったら、やり投は始めていませんでした。巡り合わせに感謝しています。進学校だったので、強豪校のような環境でのトレーニングではありませんでしたが、練習で走ったりリレーに出たり、偏った練習にならなかったこともよかった思います」

競技力が突出して高かった北口を、チームメイトたちはどう見て、どういう接し方をしていたのだろうか。「榛花が思うような練習ができなくて、思い詰めた表情で天を仰いでいたシーンを覚えています。松橋先生と2人で何か真剣に話し合っていて、私たちどうしよう、という雰囲気に周りがなっていたこともありました。でも練習後には同学年の女子3人でよく、おしゃべりをしていましたね。榛花はよく笑う子で、1時間とか2時間とか、他愛もない話を楽しくしていました」

今年の正月に高校の陸上部仲間で、松橋先生も交えて集まった。北口は金メダルを持って来てくれたが、性格は彼らが知っている北口とまったく変わっていなかった。「すごい世界で戦ってきて、色んな景色を見てきたと思います。テレビでは悔しくて泣いているところも見ましたし、メダルを取って喜んでいる姿も見ました。すごくストイックにトレーニングもしているのでしょう。でも私たちといるときの榛花は明るくて、以前と同じ彼女のままでした」

その朝倉さんが「榛花の表情が引きつっている」と感じたことがある。東京五輪の決勝だ。予選は62m06で通過したが、そのときわき腹を痛め、決勝はどうしたらいいのかわからない心境で臨んでいた。それが表情に出てしまい、不安がさらにパフォーマンスを低下させた。東京五輪後はどんな状況でも、北口は試技1回1回全てで笑顔を出している、と取材で話したことがあった。そういう心理状態を作るようになっている。

勝利の女神が北口に微笑む

松橋さんは前述のように、全国大会出場者を何人も育成した指導者だ。それでも北口クラスの選手に巡り合うことはなかった。北口とは大学2年時のユニバーシアードに帯同したり、その後もアドバイスをする関係は続いた。定年退職後も大学の指導や、道内有望高校生の指導を依頼されたりして、陸上競技と関わり続けている。松橋さんの人生も北口の存在で影響を受け、充実したものになっているという。松橋さんは「神様の存在を信じるようになった」という。「私もそれなりに一生懸命やってきて、日の目を見ることも時々ありましたが、そこまではありませんでした。定年が近くなって部活動へのモチベーションもいまひとつだったところに、北口と出会うことができて、定年までの3年間を一緒に日の当たる場所に行くことができたんです。その後も、私という人間がどなたかに必要とされるようにしてくれた。1年違えばまた、ちょっと違ったと思うのです。本当に神様のなせる業だったのかな」

高校時代の北口の競技成績は神がかっている、と松橋先生は感じていた。「自分がここでこうしたい、こういう記録を狙いたい、何を狙いたい、というときに北口は100%やってみせてくれた。もしかしたら100%以上だったかもしれません。例えば高校2年生の春に53m台(53m08)をいきなり投げたのですが、これは日本選手権の標準記録でした。私は日本選手権に出ようなんて思っていなかったのに、本人はちゃんと調べているんですよ。それで53mを狙って、53mを投げている。高3は砲丸投でも日本選手権に出たのですが、それも春先の試合で日本選手権の標準記録を狙って出しているんですよね。高校記録も高校最後の大会で、それも最終投てきで出しました。人間業ではないと思えることを、高校時代はことごとくやってきているんです」

北口の67m04は今季世界リスト1位で、ダイヤモンドリーグで女子やり投が行われた3試合中2試合で優勝している。金メダル候補筆頭と言える実績だが、本人は金メダルではなく「メダルを目指してメダルを取る」ことを目標としている(北口の目標設定の仕方は前編参照)。自身の今の力を発揮すればメダル争いに身を置くことができる。メダルの色は自ら意識せず、神に委ねているのだろう。同級生の朝倉さんは、「無理はしてほしくないけど、榛花が金メダルを持っているところを見てみたい」と祈っている。マラソン以外の女子種目で金メダルが実現するかどうか。勝利の女神が北口に微笑んでくれるだろう。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)