日本陸上界初の快挙が実現されようとしている。女子やり投の北口榛花(25、JAL)は前回銅メダル。女子フィールド種目では五輪&世界陸上を通じて初のメダル獲得だった。ブダペストでは、今季の実績から金メダル候補に挙げられている。銀メダル以上なら女子フィールド種目過去最高成績だ。だが8月7日前に取材に応じた北口は、金メダルは狙っていないと話した。その理由は明言しなかったが、北口のここまでの戦績やコメントなどから、北口の思いが少なからず伝わってくる。
東京五輪で生じた目標設定の仕方の変化
北口が7月16日のダイヤモンドリーグ(以下DL)・シレジア大会でマークした67m04の日本新は、今季世界最高記録である。単日開催では世界最高レベルの大会であるDLは、今季ここまで6月9日のパリ大会、同30日のローザンヌ大会、そしてシレジア大会と3試合で女子やり投が行われた。北口はパリ大会(65m09)とシレジア大会で優勝し、ローザンヌ大会でも2位だった。ブダペストの金メダル候補ナンバーワンと言える実績を、今季は積み重ねてきた。だが北口は「金メダルを取りたい」とは口にしていない。8月7日の取材で目標を次のように話した。
「どの国の記者の方にも『金でしょ?』と言われるようになってきましたが、自分の中での目標は“メダルを目指してメダルを取ること”なんです。その目標はブラさず、それだけを見て堅実にやっていきます」
北口の目標設定には、これまでの経験も影響している。北口は15年のU18世界陸上金メダリスト。シニアになってからの世界大会は、19年世界陸上ドーハ大会はわずか6cm差で予選落ち(60m84)。21年東京五輪は予選で62m06を投げて決勝に進んだが、予選でわき腹を痛めた影響で決勝は最下位の12位に終わった(55m42)。その東京五輪まで北口は、「メダルを目指さないといけない」と考えていたのだ。昨年のシーズンイン前の取材で北口は次のように話していた。
「世界大会はずっとメダル、メダルと、どこか責任感みたいなものを感じてしまっていました。しかし東京五輪が終わって、本当にメダルを目指せるラインにいたのかな、と考えたんです。いきなりメダルを目指すより、入賞を目指すことからスタートすべきなんじゃないかと。19年の世界陸上は予選落ちでしたが、東京五輪は決勝に残るところに来ました。パリ五輪を見据えて、東京五輪の結果も踏まえて、世界陸上オレゴンは入賞を目標にします」
そしてオレゴンは銅メダルを獲得することができた。しかしオレゴンのメダル争いは熾烈だった。北口は1回目の62m07で、前半3回終了時には3位につけていた。しかし4回目が終わって4位、5回目が終わって5位に後退。「入賞を目標にしていたので、急にメダルを欲しがっても取れないよなって思って…」と競技後のTBSのインタビューに答えていた。東京五輪まではメダルを取らないといけない、と考えて上手くいかなかった。オレゴンではメダルを目標にしなかったことで、メダルを取ることができた。しかしオレゴンの試合中には、メダルを目標としなかったら、メダルを取れないかもしれないと考えた。目標設定の仕方でパフォーマンスが100パーセント決まるわけではないが、今の北口は“金メダルではなくメダル”を目標とすることで、最高のパフォーマンスを引き出せると考えている。
今季の世界トップの動向を見れば北口優位
北口が戦う世界トップレベルの情勢を紹介しておきたい。
リオ五輪以降の世界大会優勝者は以下の通り。
■17年世界陸上ロンドン
B.シュポタコワ(チェコ)66m76
■19年世界陸上ドーハ
K.バーバー(豪州)66m56
■21年東京五輪
劉 詩穎(中国)66m34
■22年世界陸上オレゴン
K. バーバー(豪州)66m91
世界陸上オレゴン大会の入賞者は以下のようになる。
1位 K・バーバー(豪州) 66m91
2位 K・ウィンガー(米国) 64m05
3位 北口榛花(JAL) 63m27
4位 劉 詩穎(中国) 63m25
5位 M・リトル(豪州) 63m22
6位 L・ミューゼ(ラトビア) 61m26
7位 A・ラニ(インド) 61m12
8位 N・オグロドニコワ(チェコ)60m18
そして今季世界リストの上位8人は以下になる。
1位 北口榛花(JAL) 67m04
2位 S・ボルゲ(ノルウェー) 66m50
3位 M・リトル(豪州) 65m70
4位 L・ムゼ(ラトビア) 64m78
5位 V・ハドソン(豪州) 64m05
6位 T・ハラドヴィッチ) 63m84
7位 E・ツェンッゴ(ギリシャ) 63m65
8位 T・ピータース(ニュージーランド)63m26
世界大会での強さは世界陸上2連勝中のバーバーが一番だが、今季は62m54がシーズンベストで、DLでもパリ大会こそ2位と北口に続いたが、その後の2戦は6位と7位。苦しいシーズンとなっている。東京五輪金メダルの劉も今季は61m63がシーズンベストで、中国国内の世界陸上選考会、アジア選手権とも2位と敗れている。今季世界2位記録のボルゲは、シーズンセカンド記録が60m31と低く、世界大会も17年世界陸上ロンドンを最後に出場していない。ライバルたちの動向を見ても、北口優位の見方が優勢になっている。そのなかで好調なのはリトルで、今年は5月のゴールデングランプリと6月のDLローザンヌ大会で北口に勝っている。だがDLパリ大会とシレジア大会では北口が勝ち、直接対決は2勝2敗である。
女子やり投を観戦する際にはライバルたちの情報は知っておくと便利だが、北口自身はそういった外的要因に気をとらわれないようにしている。「明らかに調子がいいのはマッケンジー(・リトル)選手なのですけど、世界陸上に向けて世界中の選手全員が、最高のパフォーマンスを準備して来ると思います。ここまで調子が良くなかった選手も変わる可能性が十分にある。ですから、誰が(メダル争いの)相手ということより、自分の動きがしっかりできれば勝負できる、と考えています」北口は直前の準備段階では、自身がやるべきことに集中している。ライバルたちを思い浮かべるよりそうすることで、解決すべき課題や行うべきトレーニングが冷静に判断できている。
「絶対に負けたくない」気持ちもパフォーマンスに影響か
試合が始まってからは、北口はどんなことを意識しながら試技を進めるのだろうか。準備段階とは少し変わって、冷静さのなかにも情熱を持って戦っていく。予選は「1投だけで通過したい」という。予選通過記録(前回のオレゴン大会は62m50)を投げれば決勝に進出できるが、予選通過記録といっても絶対に12人以下になる高いレベルに設定されている。北口は「63mくらい」を投げれば間違いないと考えて臨む。
「慎重に入っても、そのくらいの距離が出る準備はしたいと思っています」
決勝も1投目は慎重に入る。その1投目で、4回目以降も試技が行えるベストエイトに残る記録(オレゴンは59m83)を残せばいいが、今の北口はそんなレベルではない。ここでも63m以上は投げておきたい。
「1投目はスペシャルなことをやらないようにしています。慎重に入って(メダル圏内に近い記録を)出すことができたら、2投目から4投目くらいまでは挑戦というか、次のやりたいことにフォーカスできます。助走スピードを速めるとか、もっと前に進みたいとか、慎重に投げた投てきから修正点が出ると思うので、2~4投目でその修正をしたい。それができれば、その間の試行錯誤で5、6投目に勝負する方法を見つけられます。5、6投目でさらに記録を狙って行きます」
北口以前の日本選手は、3回目までにその日の最高記録を出すことが求められた。そうしないと予選を突破したりベストエイトに残ったりすることができないからだ。だが北口はもう、そのレベルではない。その日のベストと思われる記録を下回っても、予選通過やベストエイト入りはできる。昨年のオレゴンが6回目で5位から3位に上がったが、昨年以降は終盤の試技で記録を伸ばしている。
昨年はオレゴンだけでなく、9月のダイヤモンドリーグ・ブリュッセル大会とチューリッヒ大会も、6回目にその日のベスト記録を投げた。今季も日本記録の67m04を出した7月のDLシレジア大会以降、ルッツェルン、オッフェンブルクと連続で6回目にその日の最高記録を投げた。北口が話した後半試技で記録を伸ばすパターンがしっかり確立した。そう思われたし、北口自身も「そう思いたい」という気持ちがあるが、それだけではないようだ。
「感情的な部分も結構あるんです。絶対に負けたくない、この順位で終わりたくない、そういう思いで記録が伸びることもあるとは思います」
実は後編で紹介する高校時代も、最後の6回目でビッグパフォーマンスをすることが多かった。もちろん、体力や技術があってのスポーツなので、感情だけでパフォーマンスが上がるわけではない。それでも、感情があるから準備段階で頑張れるし創意工夫ができる。“負けたくない思い”はパフォーマンスに現れる。その意味では北口が名前を挙げたリトルは、警戒すべき相手だろう。オレゴンでは1投目の63m22でトップに立ったが、その後記録を伸ばせず、北口を含めた有力選手たちに試技毎に抜かれ、最終的には5位にまで落ちた。今季に懸ける思いは強いはずで、その結果が北口に2勝という形で現れているのだろう。北口は準備段階ではメダル圏内を想定し、技術的、メンタル的な準備をしてきた。だがいざ試合が始まれば、金メダルへの貪欲な試技を続けるはずだ。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)