戦争の記憶を未来につなぐ「NO WAR プロジェクト つなぐ、つながる」です。終戦から78年。戦時中、大学生たち学徒は兵力不足を補うため戦地に赴くことになりました。「学徒出陣」と呼ばれています。学問の自由を奪われた学徒たちにとっての戦争とは…。
戦地に赴いた、秀村選三さん。おととし、98歳で亡くなりました。
その後、当時のことを綴った日記が家の書庫からみつかりました。
1942年8月27日の日記
「京都帝大より合格通知あり」
太平洋戦争が始まった翌年、京都大学に入学した、秀村さん。学問を続けることへの葛藤が綴られていました。
1942年10月24日の日記
「日本は危機に立っている。この現実のこの烈しさ。ひとり経済史の勉強とはなんだ」
入学からおよそ1年後の日記には…。
「徴集猶予停止」
1943年秋、日本軍が敗戦を繰り返す中、不足する兵力を補うため、学生らが陸海軍に入隊することになりました。「学徒出陣」です。
学徒出陣決定後の秀村選三さんの日記
「俺は飛び込んでいこう、そうだ、若き血液を国家にささげよう」
「もう決して大学に帰る日はない」
「いまの時代、学問も何の役にも立たぬ」
京都大学だけで4500人の学徒が出陣したとされていますが、無謀な作戦に加わった学徒も多くいました。
その1人が、秀村さんの親友の林市造さん。信仰心の厚いクリスチャンでした。
「日なり 楯なり」より 元学徒 林市造さんの手紙
「私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くに居る気持ちがするからです」
「私は讃美歌をうたいながら敵艦につっこみます」
林さんは特攻隊員となり戦死しました。
秀村さんは戦争を生き延び、戦後は学問の道に戻ります。しかし、多くの戦友が亡くなっていました。
終戦後の秀村選三さんの日記
「私はただ社会のため、人の世のために意義あるものを為したいと思う」
息子 秀村研二さん
「よく自分よりも優秀な人たちがたくさん死んだというのは言っていて、その分自分たちも頑張って生きなければいけないという思いは語っていました」
戦後、秀村さんは九州大学の教授となり、「絶対非戦」を訴え続けたといいます。
さまざまな思いで京都大学を出陣した学徒。戦争に翻弄された秀村さんが記した思いは大切な教訓です。
終戦後の秀村選三さんの日記(1947年)
「国家の危機を思い、ああまでして飛び込んでいったのに、その真相は何であったのか。各自の責任を思え。すべてが偽りの世の中なのだ」
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