敵・味方越え… “死の行進”たどる「和解」の旅

日本側の遺族として、東京から参加した馬場淳郎さんと孝郎さん兄弟。カメラマンとしての仕事を活かし、連合軍兵士の墓地や地元住民の被害を伝えるモニュメント、日本人墓地など、関係者の話を直接聞きながら記録に収めていきました。

馬場さんたちが参加した「和解」の旅で案内役を担ったのが、地元マレーシアのシンシア・オンさん。戦時中、祖父や曽祖父など親族7人が、日本軍に殺されました。英語を話せたため、スパイ容疑をかけられたといいます。

シンシア・オンさん:
「(数日後)日本の将校がきて、ひざまづいて涙を流し始め、祖母に許しを求めたといいます。『私があなたの夫を殺してしまった』と。しかし彼は上官に銃口を向けられ、殺害を強いられていました」

いまも、日本を許さないという親族が多いといいますが、それでも、罪を認めた兵士の姿勢や、和解の取り組みに参加してくれた馬場さんたちの存在が癒しにつながっていると話します。

弟・孝郎さん
「本当にたくさんの事実に圧倒されています。それでも私たちの結びつきはしっかりと維持していきたい」

兄・淳郎さん
「(外国の)遺族の方と来れて、彼らの目線でも(戦争について)知ることができたっていうのは(良かった)。そんなことはたぶん日本にいたら思いもつきませんでしたので」

かつてのジャングルには道ができ、兵士たちの行く手を阻んだ密林は広大なヤシ畑へと姿を変えました。捕虜の収容所跡地は公園になり、「死の行進」を伝える施設も各地に建てられています。

父・馬場芳郎さん
「こういう写真は初めてですよ」

展示の一角にはボルネオ島最後の司令官・馬場正郎陸軍中将の写真も。脇には短く「戦犯として処刑された」と書かれていました。

馬場芳郎さん
「指示と言うか、責任があるということに関しては間違いないと思いますね」

着任した時には「死の行進」の決定がすでに下されていたこと、馬場中将自身は無謀な移動に反対だったことなどは、触れられていませんでした。

シンシアさん
「この展示は出来事の一部を伝えています。でも、これが全てではありません。これを見ると私は悲しくなります」

毎晩、夕食のあと意見交換が行われました。話題になったのは国ごとに建てられる追悼施設。それが敵と味方を分け、複雑な事情を排除してしまうというのです。

イギリスから参加 エディー・ヘイウッドさん
「語られているのは自分たちの捕虜や自分たちの受けた被害の話ばかりです。すべての人が無罪ではないし、一方が完全に犠牲者ということもありません」

「和解」の旅の最終日、霊峰・キナバル山を望むシンシアさんの自宅で合同の慰霊祭が行われました。

シンシアさん
「名前は見た?みんな一緒。素晴らしいでしょう、たぶん初めてのことよ」

庭に建てた石碑に刻まれたのは、同じ戦争で犠牲になった人たちの名前。敵・味方を超えて、名前が刻まれるのは初めてのことでした。

カメラを通じて戦争が残した傷跡と向き合った馬場さん兄弟。海外の遺族との交流を続け、「相手を理解し続けること」が和解の一環だと感じています。

兄・馬場淳郎さん
「きれいな写真を撮るだけじゃないような感じだったので、人の真剣な表情とか思い入れ。そこが少し理解できて、よかったなとは思います」

弟・馬場孝郎さん
「『和解』って言うのは被害者と加害者の両方の知りたくもないところまで知ろうと思わないと和解はできないと思いましたね。自分は変わったなというのは感じますね」