太平洋戦争末期の1945年、東南アジアのボルネオ島で「サンダカン死の行進」と呼ばれる悲劇が起きました。
未開のジャングルを横切る日本軍の移動命令により兵士など8000人以上が死亡。現地で捕虜となっていたオーストラリアとイギリス軍の兵士たちも巻き込まれ、2400人余りのうち、6人を除いて全員が犠牲になりました。
終戦から78年となる今年、遺族や関係者の有志が、国や立場を超え現地に集いました。お互いの理解と癒しを目指す「和解」の旅です。

日本人が参加「サンダカン死の行進」の追悼

マレーシアの東部・ボルネオ島の原生林に抱かれた東南アジア最高峰のキナバル山のふところで、7月末、戦争の犠牲者を追悼する法要が行われました。 

参加したのは、地元マレーシアのほかオーストラリア、イギリス、そして日本などこの島で命を落とした人の遺族や関係者20人ほどです。

その様子を熱心に撮影する兄弟。兄・馬場淳郎さんは主に企業の広報写真を、弟・孝郎さんはテレビコマーシャルなどを撮影するカメラマンで、父・芳郎さんと家族3人で初めて島を訪れました。

兄弟の曽祖父は、日本軍でボルネオ島の最後の司令官を務めた馬場正郎陸軍中将。
のちに「サンダカン死の行進」と呼ばれる軍の作戦の責任を問われ、戦後まもなくBC級戦犯として処刑されました。

弟・馬場孝郎さん
「(曽祖父が)戦犯になったということは知らなかったです。単純に軍人で、何かの虐殺に関わったということだけしか知らなくて…」

日本の敗戦が色濃くなっていた1945年1月、軍の上層部は敵が迫るボルネオ島の東海岸から西海岸へと部隊の移動を決めます。食糧も薬もない中で、最大600キロ以上の未開のジャングルを進む無謀な命令でした。

移動を強いられたのは民間人を含む1万人〜2万人。その半数近くが、飢えや病気で死亡しました。

島の東部、サンダカンに収容されていたオーストラリアとイギリスの捕虜たちにも、内陸部への移動を命じられます。ついていけなくなった者は密かに銃殺もされ、2428人が犠牲に。脱走した6人だけが生き残りました。

「日本人も共に慰霊を」 オーストラリア遺族の思い

オーストラリアでは最悪の戦争犯罪とされる「サンダカン死の行進」。捕虜や地元住民の遺族による慰霊祭が毎年続けられていますが、日本人が参加したことはありませんでした。

日本人の遺族も参加した慰霊祭の実現を望んだ人がいます。

2015年、私たちはオーストラリア人のディック・ブレイスウェイトさんを訪ねました。同じ名前の父・ディックさんは、死の行進で生き残ったわずか6人のうちの1人でした。

戦争のトラウマを抱える父の姿を、ディックさんは子どもの頃から間近で見てきました。

ディックさん:
「何年にもわたってあの場所で何が起きたのか、理解しようと努めてきました。なぜあれほど多くの人たちが意味もなく死んでいかなければならなかったのか」

悲劇が起きた原因を調べる中で、ディックさんは日本に足を運び、戦犯となった司令官の遺族である馬場さんの一家とも交流。日本兵が残した手記などを通じて、日本人もある種の犠牲者であると感じるようになったといいます。

その様子を見てきた娘のクリオさんは…。

ディックさんの娘 クリオさん:
「父は長い間本を書こうとして、さまざまな視点から草稿を練っていました。中には反日的な内容もありましたが、固定観念を捨てるためには必要だったんです。父は“自分の気持ち”を思い返して、「双方に寄り添った考え方」に至ろうとしていました。『反日』でもなければ『反オーストラリア』でもない、たどり着きたかった『反戦』という考え方に」

取材の翌年、病気で亡くなったディックさん。亡くなる直前、それまでの調査を500ページにも及ぶ本にまとめていました。

その最後に記されていたのは「和解」への願い。日本側も参加し、戦争のすべての犠牲者を弔う合同の慰霊祭を開くことでした。

ディックさんと親交があった仲間を中心に計画を立て、ようやく実現した「和解」の旅。20人ほどが5日間をかけて、1万人以上の犠牲者を出した死の行進のルートをたどりました。