6月にケニア合宿を行った陸上の田中希実(23、NewBalance)。趣味の読書を通じてケニアの魅力を知った彼女は夢を現実に変え、17日間の合宿に挑んだ。“郷に入っては郷に従え”が田中流。「明確により強くなるために」挑戦する彼女に、密着した。

拠点としたのは標高2400m、多くのケニア代表選手を輩出し、“ランナーの聖地” や “マラソンの聖地”とも言われるイテン。
ケニアに憧れを抱いたのは高校生の時だ。

田中:なんでケニア人が速いのかっていう本を読んで、本にあるケニアの雰囲気が凄く良くて、その空気に触れて、みんなと一緒に生活したらすごく楽しいだろうなと思って。ただ強くなりたいというより、とにかくケニアで生活してみたい、走ってみたいという気持ちがその本をきっかけにあったんで。

“合わせていく” 田中希実のスタイル

普段はコーチを務める父・健智(かつとし)さんとの二人三脚がメインだが、今回は現地のランニングチームに加わり、同じメニューをこなした。

練習サイクルは日本とは異なる。日本では通常朝ジョギングをし、昼前後で強度の高い練習をすることが多いが、ケニアでは朝7時頃からメインとなる練習を行う。

ケニアの選手と練習する田中選手

田中:基本的にメイン練習は早朝に終わらせるって感じですね。スピード練習も距離走も全部朝にやります。

――日本とリズムが違わないですか?
田中:そうですね。でもこっちの方が朝のうちにキツイ練習も終わるので、気持ちは楽ですね。なんか午後にスピード練習があったら、1日中憂鬱な感じになるんですけど、朝の寝ぼけているうちに終わらせる方が・・・。

――体の立ち上げとか難しくないですか?
田中:
ちょっと動きにくい感じはあるんですけど、ケニアの場合、スピード練習って言っても最初からトップスピードで入るというよりは、段々ビルドアップ的に上げていく感じなんで、走りながら体を作っていくっていう感じなんで、それに合わせていくっていう感じですね。

この “合わせていく” という部分が世界と戦う上で大事だと、父・健智さんは言う。

ビュッフェスタイルの夕食

父・健智さん:環境に順応するというか合わせていく、その土地その土地に合わせていくっていう・・・。「これができなかったらどうしよう」と思ってパニックになったら、パフォーマンスも発揮できない事もあるんで。それは試合も同じことだと思うので、海外であったらスタート時間の変更であったりとか、招集場所がどこであるとか、ウォームアップエリアも無いような中で整えないといけない事も多々あるんで、色んな事をその場で対応する事が大事かなというのをこういった場面から身に着けていくことが重要。

あらゆる環境に臨機応変に対応できる能力を身に付けるのもケニア合宿の目的の一つ。練習メニューをチームに一任したのもその一環だ。それに加え、田中は海外遠征や合宿には日本食は持ち込まないという。よく耳にする “勝負飯” というのがないのだ。その場にあるものを食べ、その環境で心身を整える。“郷に入っては郷に従え” それが田中希実のスタイルだ。

ケニアでの夕食の様子

ホンマに “猫踏んじゃった” になりそうやった(笑)

取材に訪れて最初の練習は “ヒルワーク” 、傾斜のある300mの不整地を40分間休むことなく上り下りする練習だ。その場所は標高2200m。歩くだけでも苦しくなるその坂をケニア人ランナーに紛れた田中は淡々と走り続けた。

気になったのは不整地を走る事で生まれる怪我のリスク。道には深い溝や大きな石が転がり、足をひねったり、転倒する可能性もある。さらに練習中に野良猫が田中たちの間を横切り、選手たちが猫を跨ぎながら走るという珍事件が起きた。

田中:(不整地を)気にしだしたら頭が疲れちゃったりするんで、けっこう運な部分も大きいんですけど、もう大丈夫って信じて足を出すしかないというか、前の選手が大丈夫そうに走ってたら大丈夫だろみたいな感じで、足を合わせるって感じです。

―― 一緒に練習してケニアの強さ・アフリカ勢の強さって感じるものですか?
田中:
練習からも振り落としにかかるというか、急にペースが上がったりとかして、ある程度人数を絞られてから休んで、また上げてみたいな。普段の練習から当たり前にするし、今日も足場もそうなんですけど、急に猫が飛び出てきて飛び越えたりとか、車が来たり、人が通ったりとかで、周りのそういうとこにもアンテナを張り巡らせながら走っているので、ケニア人ランナーは感性が鋭い感じがします。

「ホンマに “猫踏んじゃった” になりそうやった(笑)」

そう笑いながら部屋に戻る彼女の背中から、必死について行こうとする姿勢と吸収してやろうという貪欲さ、そしてアクシデントでさえも楽しめる心の余裕が感じられた。

ケニアで感じた達成感

2日後、この日はイテンから車で1時間程のエルドレットという街の競技場へ。
といってもスタンドは建設中、インフィールドは芝生ではなく草地、トラックはすべりやすく場所によってはボコボコと波打っていた。
ケニアには整備された競技場は少なく、そういった場所は使用料がかかる。
悪条件であっても無料で使用できるこの競技場には朝7時頃から200人程のランナーが集い、その中には女子マラソン世界記録保持者のブリジッド・コスゲイ(29)や今年の東京マラソンで優勝したローズマリー・ワンジル(28)などトップアスリートの姿もあった。

競技場での練習

そこに姿を表した田中。

田中:ウォームアップはあまり近くで撮らない様にお願いします。

この日は撮影最終日。それまでは快く撮影に協力して貰っていたが、レースで見るような覇気を纏っていた。

父・健智さんに練習について尋ねた。

父・健智さん:練習メニューを見て今日はそのままやってみようっていう、本人もチャレンジっていう形になって、結構厳しい練習ですね。だいぶ厳しいです。ここの標高は2100mです。この場所でやるような設定タイムではないんですけどね。今日どれだけ粘って、我慢して、自分のものに出来るか・・・。

これまでの練習は、チームメイトが5本やるところを3本にするといったように本数を減らして行っていたが、合宿も終盤に差し掛かり挑戦の意味も込めて全て同じメニューで行う事を決めたという。

メニューは2000m×1本→600m×4本→1000m×1本→400m×4本→200m×5本。

序盤は比較的楽なペースで進むも、徐々に強度を増していく練習に必死に食らいつく。400m×4本が終わった段階でチームコーチとグータッチをする姿が見られた。練習が終わったのかと思い声をかけると・・・

田中:今からまた2000mするみたいなこと言ってて、ペース走だと思うんですけど・・・それに付いて行けるかどうかっていう・・・そんなに上げないとは言ってたんですけど・・・

本来200m×5本という最後のメニューが残っていたが、田中も私も練習が終わったと勘違いしていた。それでも彼女は、充実感に満ち溢れた清々しい表情を浮かべた。それは残されたメニューも “やってやろうじゃないか”といったような自信を感じさせるものだった。実際ペースメーカーの前に出る程の走りを見せ、練習は終わった。

田中:2000mじゃなくて200m5本でしたね(笑)初めて間引かずに出来たんで、それは凄く達成感があって。今までは半分まで付けたらラッキーとか、3分の2まで付けたらラッキーとか、あと逆に前半付いて、真ん中ちょっと休ませてもらって後半付くみたいなことしてたんですけど、今日は本当に初めて全部付けたんで、それは凄く自信になりました。

――達成感ありますか
田中:
はい。

明確に強くなるために行った17日間のケニア合宿。8月に開幕する世界陸上ブダペストでその成果を見せて欲しい。