20年を総括すれば何かとよく問われるんですけども、とにかく稼いだなと。とにかく走り回って稼いだなと走り回ったなということでありますが、いわゆるフォーマットっていうべきか土台というべきか、様々に土台をきちんとメンテするというか、きちんとしなきゃいけない各分野に対して、丁寧にきちきちっと段取りをするそれはもちろん先ほど話しました財政という非常に大きな課題もありますけれども、産業という課題、要するに食える青森県にどうしたらするかということが命を守る青森県をどうするかといったことと、そしてまた何よりも自らが、要するに働ける場所がないからこそ、どんどん若い方々を外で、こちらで就職先を探したわけですから。

出さざるを得なかったそのことに対しての大きな我々としての、いわゆる反転攻勢という意味において、いかにしてふるさと青森が大きく変化し暮らしやすさ、あるいは仕事の多様さ、そしてまさに交通体系等が良くなることによって従来の「非常に遠い青森」というものじゃないよと、近くそして行き来しやすく、ここでチャレンジできるよ。
それが企業創業という形の目標値の(数値)で現れたわけですけども、そういったことを含めてしっかりと知ってもらうというステージまでたどり着けたと思っております。

そして得意分野を、とにかくこの経済。とにかく足りないこの経済というもののために、得意分野を伸ばさなければいけないということにおいての、例の攻めの農林水産業、特に所得が2.29倍というふうに伸ばすことができた農業の分野でありますとか、あるいは観光の分野も得意分野として、いつも言ってる570%~0%ということでありましたけども、この1年でメキメキとした回復を繋ぎつけておきましたから、そういったことも段取り出来たものと思っております。

そして全て一言で感謝の思いを申し上げるのであれば、何よりも県民の皆様方が、様々な場面において、特に自分自身は東日本大震災のときのあれだけ力を合わせてくれて…。本当に自分自身がきつかった。非常にきつかった。経済の打撃も含めてですけども。

東北各県の状況も含めて全体を良くしていかなければいけない、きつい場面だったんですけども、あのときに我々青森県民の絆の力の強さといいましょうか、支え合う力の強さ。そのことを感じたということもございました。何よりも県民の皆様方のお力をいただきながら、そして議会。そして何よりもチームとして。各分野にチームとして全力で働いてくれた県庁職員。この力をいただくことによって、県政20年ということで今日に至ったと思っております。

先ほどもお話させていただいたんですが「子育ては親育て」という言葉があるという例えを話させていただいたんですけども、子育てを通じて親として自らを律し成長していくという例えなわけですけども、この20年間、青森県知事三村申吾をしっかりと育み成長させてくれたのは、まさに…直接的には常にそばにいるOBを含む全ての県庁職員の方々であり、青森県民の皆様方であり、もう常に叱咤激励という県議会の皆様方である。

そういった方々の力をいただいて、子育て親育てと例えとしてちょっとどっか悪いんですけども、青森県知事としての仕事をしっかりと。知事として、こうして最後を終えることができるというところに、自分の気持ちとしては至れたと。そう思っている次第であります。

さらに同じことを繰り返して申し訳ないところでありますけども、自分とすれば、非常に苦難・困難様々なことがあり山あり谷ありというか本当に谷、谷というところが続いたりとかもしましたけれども、全ての仕事にこの良いチームをいただいて、全力で当たることができた。そのことによって、あっという間のこの20年。もうトータル的に言えば、よく働くことができる状態を作っていただき、全力で働き抜けたと。

先ほど馬車馬といいましたけど、馬車馬と例えるのが適切、不適切はちょっと言葉としてあるかもしれませんけど、馬車馬のようにとにかく稼ぎ回って稼ぎまくって、絶対に青森県を潰さないよと。絶対に食える青森県にするぞと。絶対命を守る仕組みを作っていくぞと。その一途の思いを貫くことができたと考えております。
繰り返しとなりますが、県政記者会の皆様方、また県民の皆様方、そして職員・議会の皆様方。全ての皆様方に感謝して、私からのご挨拶とさせて頂きます。本日は誠にありがとうございました。

【一問一答】

Q.この20年間で最も印象に残った出来事は?

やっぱり東日本大震災。うちは電源確保できてたわけだから。それにカメラをあちこちに設置しているわけだから。あの状況を直接目の当たりにしたっていうのはむちゃくちゃやっぱり辛いものであり、とにかく逃げろ!逃げろ!と。来るなと言っても波は来るし。船は突っ込んでくるし車が(海に)浮いて…。そういった状況を目の当たりにしたことのあの辛さっていうのかな。