初めてその姿を見たのは、名古屋駅前の地下街にあった洋食屋さんだった。現在すでに店はないが、「ブギ」という名前の、正統派の美味しい洋食店。入り口近くの席で、ひとり黙々と食事をしている“紳士”の姿に、私の隣にいた母がそっと教えてくれた。「杉下茂さんだよ」。1970年頃、小学生時代のことである。

伝説として知る大エース

杉下茂さんが亡くなった。97歳だった。現役時代を、リアルタイムでは見ていない。しかし、ドラゴンズファンになった小学生の頃から、活躍のすごさは“伝説”として聞かされていた。日本で初めてフォークボールを投げた人だとも教えられた。

その存在は、2023年に創設87周年を迎えた中日ドラゴンズの球団史に、まさに燦然と輝いている。1954年(昭和29年)ドラゴンズ初めてのリーグ優勝、そして、最初の日本一をもたらしたエースである。そのシーズンは32勝をあげ最多勝に輝いた上、最優秀防御率や最多奪三振など投手5冠を達成した。

「サンデードラゴンズ」より杉下茂氏(C)CBCテレビ

竜ベストナインの投手

西鉄ライオンズとの日本シリーズでは7試合の内5試合に登板して3勝、見事ドラゴンズを日本一にして、シーズンに続きシリーズでもMVPにも輝いた。登板した5試合で完投が4試合、今ではとても考えられないタフなエースの姿である。ドラゴンズの背番号「20」を、エースナンバーにした大投手である。

通算成績は、215勝123敗、沢村賞も3度獲得している。「竜のエース」どころか「日本プロ野球界のエース」。現役引退後は、ドラゴンズでは2度にわたって、監督も務めた。2016年に上梓した『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』という本の中で「わが歴代の竜ベストナイン」を選んだ。投手は杉下茂さん、その投球を“生で”見ていないにもかかわらず、である。

ジャイアント馬場とも対戦

杉下さんのエピソードは尽きない。過去二度にわたって実施された「中日ドラゴンズ検定」の問題にも複数回登場している。杉下さんは、1955年(昭和30年)にノーヒットノーランを達成するのだが、その相手投手が400勝投手となった金田正一さんだったこと。すごい投げ合いだったことだろう。

その2年後、讀賣ジャイアンツ相手に通算200勝を達成した時の相手投手が、その後にプロレスラーに転向し「ジャイアント馬場」を名乗る馬場正平さんだったこと。不思議な巡り合わせでもある。ドラゴンズでは211勝を挙げていて、それは50歳まで現役を続けた山本昌投手が破るまで、ドラゴンズの球団記録だった。