前日、桐生祥秀(27、日本生命)が男子100mに10秒03(+0.7)で復活したが、寺田明日香(33、ジャパンクリエイト)もそれに続いた。木南記念2日目(5月7日・大阪ヤンマースタジアム長居)の女子100mハードルに12秒86(+0.7)の日本歴代2位タイで優勝。2位の田中佑美(24、富士通)も12秒91の日本歴代4位の好タイムをマークした。

寺田は07年に高校記録(当時・13秒39)を出し、09年世界陸上ベルリン大会代表に成長した。13年に一度引退し、出産を経て競技に復帰した19年に、12秒97(+1.2)と日本人初の13秒突破を果たした。21年に12秒96(+1.6)、12秒87(+0.6)と日本記録を更新。19年世界陸上ドーハは予選止まりだったが、21年東京五輪は準決勝に進出した。

しかし22年に青木益未(29、七十七銀行)が12秒86(-0.2)、福部真子(27、日本建設工業)が12秒82(+0.9)、そして12秒73(+1.1)と日本記録を更新。寺田は日本選手権を欠場して休養シーズンに当てた。
木南記念の0.01秒の自己記録更新は2年ぶりの12秒台。想定通りに復調した。

スプリントの新たな技術に挑戦中

寺田の復調は新しい技術にトライした結果だった。ハードリングは「まだ作っている途中」だが、スプリントは明らかに速くなったという。つまり足が速くなった。

「スプリントはすごく良くなってきて、それは大きいと思ってます。力技ではなくテクニックなものを入れ始めて、効率を求めてスプリントをやっていますね。(スプリントの技術も実は)まだ言葉にするのが難しいんですけど。かなりこの辺(体幹)で動かしている感じです。その辺を作ってきました」

高野大樹コーチに、もう少し具体的な言葉にしてもらった。

「股関節を中心にした体幹周りを最大限に使って走ろうとしています。股関節の伸展と屈曲だけでなく、内旋、外旋も使った体の動かし方です」

昨年後半を休養に充てたことで、考える時間がとれたことも、スプリントの変更に踏み出しやすかった。

ハードル間の走りのリズムに余裕が生じ始めた。2年前の12秒87から0.01秒しか伸びていないが、走りのリズムが大きく違うという。

「1拍遅いな、って感じながら走ってるんですよ。ターン、ターン、ターン、ターンってリズムで走っているのですが、ンタ、ンタ、ンタって裏拍が入らないと走れない。盆踊りで走っている感じです。12秒87のときはそれがなくて87でした。今回は浮いている感じがあるのに86。余裕感が87のときよりあるので、まだ行けるんだろうな、という感触はあります。もっとガガガガっといける」

木南記念では2台目までは速いリズムで入って行けたが、3台目以降で緩慢なリズムになってしまった。

「前半からのリズムを3、4、5台目と中盤につなげて、後半まで良いリズムで刻んでいけば、(12秒7台も?)勝手に出るとは思っています。そのためにも、スプリントが安定してるところが大きいですね。12秒7台で安定して走れば12秒6台もパツっと走れると思います。そうしたら来年のパリ五輪にもつながっていく」

寺田は復調しただけでなく、今後につながっていく大きな手応えを木南記念でつかんでいた。

社長業も加え三足のワラジに挑戦中

昨年後半を休養に充てたことがプラスに働いていた。

「みんなが(良い記録で)走っていて、走っておけばよかったかな、と思う瞬間もありましたが、自分はその前に強化すべきところがある。そこにフォーカスしてやってきたことが生きてるのかな、とは思ってます」

自身の日本記録を青木と福部の2人が更新した。その状況も「楽しみながら陸上ができているので、それ(楽しむ考え方)は武器かな、と思ってます」とマイナスには考えない。

タイム的には日本記録に挑戦する立場になったが、何かに挑戦することは、寺田のパワーをアップさせる。肩書きに社長業が加わり、ママさん、アスリートと三足のワラジを履くことになったことも、寺田にとってはプラスになった。

21年のシーズン後に株式会社Brighter Hurdlerを設立。社員は寺田1人だが、現役復帰後の寺田を支えてきた“チーム明日香”のトレーナー、栄養士、ディレクターたちと契約し事業を行っている。これまでは講演やメディア出演、陸上教室、スポンサー対応などが業務の中心だったが、6月には都内で寺田自身がプロデュースしたトレーニングジム「PRO BRIGHT」をオープンさせる。

それでも練習時間は以前と変わっていない。火曜日、水曜日、金曜日が1日2回のトレーニングで、練習以外の予定は基本的には入れない。土曜日の午前中もトレーニングだ。月曜日、木曜日は自宅で仕事を行い、土曜日の午後と日曜日は家族と過ごす時間に充てる。

練習時間は削っていないが、社長業を行うことで“考えること”は増えている。夫でマネジャーの佐藤峻氏は「責任が大きくなって大変になっている面はありますが、メリハリをつけることでプラスの面が出ているのかもしれません」と見ている。

現役復帰するときには、以前のコーチに指導を依頼するのでなく、新しいコーチを付ける決断をした。生活拠点を結婚後に北海道から東京に移していたことが一番の理由だが、以前とは違う指導者のもとで新しいアプローチをしたい気持ちが大きかった。何かに挑んだときに寺田は、力を発揮してきた。

寺田の12秒台は19年、21年、そして23年と1年おきに出ている。佐藤さんは「寺田の中で狙って行く気持ちが大きいシーズンに出ている」と指摘する。19年は現役復帰した年で、20年はコロナ禍で東京五輪が延期になり、21年に東京五輪が開催された。

昨年はケガもあったが、「私はずっとオリンピックに行けなかったので、1回行くことができて、なんか疲れたな、みたいな状態になっていた」と、精神的な理由もあって休養した。「そこでパツっと休んで、もう1回走りたい気持ちが湧いてきたのは大きいと思ってます」。

23年は世界陸上ブダペストがあり、24年はパリ五輪がある。自身初の2年連続12秒台を出すことも、寺田のチャレンジ精神をかきたてるはずだ。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)
※写真は今年4月