いま女子野球界は、プロ野球の球団が女子チームを設立するなど盛り上がりを見せています。しかしここに至るまで、女子選手が野球を続けていくには様々な困難がありました。

かつて「美しすぎるプロ野球選手」と呼ばれた女性、さらにはソフトボール・東京五輪金メダリストが、その苦悩を語ってくれました。

女子は甲子園に行けない、プロになれない

いま追いかけているのは「白球」ではなく「黄色いボール」です。

(東京五輪ソフトボール金メダリスト 原田のどか選手)
「野球をしていた当時は、女子はプロ野球選手にもなれない。甲子園にも行けない…」

岡山県総社市出身、いまは愛知でソフトボールの実業団チームに所属する原田のどか選手(31)です。原田選手はおととしの東京五輪・ソフトボール種目の金メダル獲得に貢献するなど、華々しい球歴の持ち主です。

今年、社会人14年目のベテラン選手。持ち前の明るい性格で移籍したばかりのチームでもすでにムードメーカー的存在...そんな原田選手ですが、実はソフトボールではなく「野球を続けたかった」という過去がありました。

(東京五輪ソフトボール金メダリスト 原田のどか選手)
「ずっと野球をやるつもりで、ソフトボールの『ソ』の字もなかったんですけど、ソフトボールはオリンピックがあって光が当たる場所でやれているし、そこで活躍する方が率直に楽しそうだなと思ったので」

少年野球チームで「女子だから試合に出られない」ことも

原田選手が最初に出会ったのは「野球」でした。小学3年生の時、兄を追って総社市の少年野球チームに入団。チームでは珍しい女子選手でした。「女子だから」という理由で試合に出られないこともありました。

(東京五輪ソフトボール金メダリスト 原田のどか選手)
「軟式野球部に入るのもまれだったし、クラブチームに入っていたんですけど、それも私一人だけだったので。当時『女子が野球をすることがスタンダードだったか』と言われたら、そうではなかったと思います」

中学生の時に女子野球のクラブチームが誕生 しかし...

そんな中、原田選手が中学3年生の時に、岡山で初めての女子クラブチーム「倉敷ピーチジャックスレディースが誕生しました。野球で活躍できる場が広がりました。

(中学3年生時の原田のどか選手)
「野球が大好きって言うのと、元気だけは誰にも負けない、そういうプレーをしたいです」

現在は駒澤大学硬式野球部(男子)の監督で、当時倉敷ピーチジャックスの代表を務めた大倉孝一さんは、「女子野球の裾野を広げたい」と女子チームを立ち上げました。

(当時の倉敷ピーチジャックス代表 大倉孝一さん)
「硬式野球がやりたい、という女子たち、に思う存分野球ができる環境を作りたい」

高校までこのチームで野球を続けた原田選手。2008年には、女子野球W杯に代表メンバーとして出場。優勝しべストナインにも選出されました。しかし、高校卒業後に選んだのは「野球」ではなく「実業団ソフトボール」への道でした。

(東京五輪ソフトボール金メダリスト 原田のどか選手)
「世界一にもなれたし、高校卒業して進路どうするかってときに、目先のことだけではなく、その先のことも考えた決断でした」

「野球では生きていけない」…女子選手が、生計を立てながら野球を続けられる環境が限られていたのです。高校を卒業すると、野球から離れていく選手も少なくありませんでした。

そんな空気が一変したのは2010年。女子プロ野球リーグの誕生です。その看板選手として活躍した加藤優さん(27)。彼女から語られたのは、プロの舞台でも思うように野球が続けられない「苦悩」でした。

(元女子プロ野球選手 加藤優さん)
「タイトルをとったような先輩方が、どんどん首を切られていたので、『長くは続かないだろうと思って」