1954年、ビキニ環礁でのアメリカ水爆実験により、日本のマグロ漁船が被爆しました。
その船「第五福竜丸」は、江東区の夢の島に今も永久保存されています。
なぜ夢の島に? 乗組員たちのみならず船自体も数奇な運命を歩んだのです。

「夢の島」に展示されていた

日本の核被爆はヒロシマ・ナガサキだけではありません。3つ目の被爆は、日本からはるか南、ビキニ環礁近くの公海で操業していた遠洋マグロ漁船で起きました。
その船「第五福竜丸」は東京江東区の夢の島公園内に「都立第五福竜丸展示館」に無料公開・永久展示されているのです。なぜ夢の島? そこにはこの船がたどった数奇な運命が関係しています。

江東区・夢の島公園内に「都立第五福竜丸展示館」はあります。

世界初の水爆被爆者たち

1954年にビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行われたのは、米ソ対立の最中でした。
その「死の灰」をかぶったのが、遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」です。乗員23人は全員被曝しました。南洋に浮かんだ当時の乗組員に分かったのは、強烈な光、地響きのような音、そしてその後に降った白い灰に「なにか途轍もなく悪いことに巻き込まれようとしている」ということだけだったといいます(元乗組員・大石又七さんの証言による)。

除染前の第五福竜丸はすべて「危険フレルナ(触れるな)」とされました。

帰国後に乗組員に知らされたのは「米軍による水爆実験」という事実でした。
そして、その言葉通り、翌々日から次々と火傷のような皮膚の爛れや、髪が抜けるなどの症状があらわれたのです。当時「原子病」と呼ばれた被曝の症状です。

いわゆる「死の灰」は水爆で燃え、粉状になったサンゴの灰だったと言います。その灰に触れた皮膚は2,3日後に火傷のように爛れました。

半年後に、久保山愛吉無線長(当時40歳)が死亡。久保山無線長は周囲に「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い残したといいます。

久保山愛吉無線長(40)の死は世界中に報道されました。