ウクライナとベラルーシにルーツを持つノーベル文学賞作家のスヴェトラーナ・アレクシェービッチさん。ロシアによるウクライナ侵攻に大きなショックを受け、その後はロシアの体制を批判し続けてきた。侵攻から一年が過ぎたいま、ロシアをどう見ているのか、聞いた。(2月25日放送『報道特集』より 聞き手:金平茂紀キャスター)
「誰も、兄弟と戦争するとは思っていなかった」ひっくり返された世界観

アレクシェービッチさんは、第二次世界大戦中のソ連軍に動員された女性兵士500人を取材した作品などが評価され、8年前、ノーベル文学賞を受賞した。
母がウクライナ人、父がベラルーシ人で、ベラルーシで活動していたが、強権的なルカシェンコ政権を批判し、ドイツへの亡命を余儀なくされた。現在はベルリンで生活してる。
ーーウクライナ侵攻から一年が経ちました。 これほど長い戦争になると予想しておられましたか?

「正直に言うと、これが戦争の始まりだとは信じられませんでした。それほど、最初の数日間はショックを受けていました。皆、そこで起きていることが信じられませんでした。しかも、こんなに長く続くとは思っていませんでした。
私は半分ウクライナ人ですから(訳注:母がウクライナ人、父がベラルーシ人)、私の愛する祖母が、すでにこの世になく、この戦争を見ずに済んで本当に良かったと思いました。
この戦争は、すでにその最初の数日で、帝国(ソビエト連邦)が消滅した後の、私たちの世界観をひっくり返したのです」
ーー本質的な質問になってしまいますが、なぜこの戦争が起きたんでしょうか?
「90年代に帝国(ソ連)が流血の惨事を招くことなく終わりを迎えようとしていたころ、私たちはロマンチスト(夢想家)だったと思います。
戦争と言えば、その帝国の端の方で、小さな衝突があったくらいです。私たちはそれを誇りとさえ思っていました。過去へ戻ろうとする復古の動きが始まるとは誰も思っていませんでした。
私は「セカンドハンドの時代」という本を書きました。ロシア国内を沢山見て回りました。そこで見たのは、ロシアの奥深くに鬱積した攻撃性、抵抗のエネルギーでした。ペテルブルグやモスクワ、ミンスクなど、自分が普段いる環境では、共産主義は二度と戻らないと感じていました。
しかしロシアの奥深くへ行くたびに、ここで流血の惨事が起きるかもしれないという恐怖を感じました。
それは、つまり、帝国(ソ連)の中で、どのようにロシアが分割されるかや、貧富の差の出現、残酷な原始資本主義など、不平等に対する、社会的な抗議が爆発するかもと思っていました。しかし、まさか、外部の、しかも捏造された敵と戦争するとは、まったく想像していませんでした。
一面から言えば、それはもしかしたら、プーチンの頭を支配するメシアニズム(救世主信仰)的思想だったのかもしれません。彼の執務室には常に、ピョートル大帝の肖像画が飾られています。そしてもちろん、彼自身もピョートル大帝だと思っている事でしょう。時々そのような発言をしています。
でも、私たちの中ではだれも、兄弟と戦争をするとは思っていませんでした」
ーー1991年から94年までモスクワで特派員としてしてソ連の消滅を取材しました。私も実はアレクシェービッチさんと同じようにロマンチストだった時期がありました。

「そう思います。私たちはあちこちで「自由だ、自由だ」と言っていましたが、誰も自由とは何かを知りませんでした。私たちはいちばん重要なことを知りませんでした。つまり自由は、自由な人間を求める、と。しかしそのような人間はいませんでした。
強制収容所を出た人間は、収容所の門を出たらすぐに自由な人間になれるのではありません。なぜなら、彼はそれがなんであるかを知らないからです。そこで彼は何をし始めたか?彼自身の知っている事、不自由なことを始めたのです」