自身は難を逃れるも、妻と息子を亡くす

菅原さんは、一緒に住んでいた妻と長男を亡くしました。

「最初のうちは、ごめんなごめんなばっかりだったの。『一緒に逃げよう』って言うべきだったよな、ああしておけば、こうしておけば、なんで俺なんか生き残っちゃったんだみたいな気持ちで毎日やってきたけど」

震災当時、市議会議員で市役所にいた菅原さん。家に駆け戻ると、家族にすぐ近くに住む高齢者への避難の説得を頼み、地域の安否確認や避難の呼びかけに回るため、車で家を後にしました。

「『申し訳ないけどもう1回だけ説得してきてって。どうしてもだめだったらすぐ逃げろ』と『野蒜小学校がこの地域の避難所だからそこに逃げな』って言って別れたのが最後」

すべてを津波に流されてしまった菅原さん。親戚を回りようやく手に入れた写真を、遺影にしています。


そして、いまでも月命日に欠かさないことがあります。