■収容から解放も 「生きる意味ない」仮放免の生活

2020年5月、必死の訴えが実り、ようやく一時的に解放されることとなる。しかし、それは在留資格のない「仮放免」という立場だった。

「仮放免」は、病気などの特別な事情がある収容者に許されてきたが、2020年から収容施設でのコロナ感染を抑えるため積極的に行われるようになった。仮放免されている人の数は2021年時点で少なくとも4174人にのぼり、コロナ前の2018年と比べると1600人以上増加した(※法務省より 退去強制令書が出ている仮放免人員)。

しかし、仮放免中は就労が禁止されているため、当然収入もない。その上健康保険などの社会保障も一切受けられず、医療費は全額自己負担だ。月に一度は入管に出頭し、仮放免の延長を申請する必要がある。しかし延長の許可が下りず、その場で再び収容されてしまうおそれもある。

ペニャさんも、いつまた無期限の収容が始まるか分からない恐怖に震えた。何より自分の尊厳を保っていた“料理人としての生き方”も奪われ、生きる意味を見失った。

支援者へのお礼ペニャさんがに作ったチリ料理

「家賃、携帯代はボランティアさんが支援してくれる。それが恥ずかしい。僕はプロのシェフで、仕事ができました。自分のお金を作りたいのに、ビザがないからできない。我慢、我慢、我慢だけど、たまに我慢できない・・・」

ペニャさんの頭には頻繁に「死」がよぎるようになり、自殺未遂を繰り返した。

■チリには帰れない 拷問逃れて日本へ

それでも、ペニャさんにはチリに帰れない事情がある。

1973年9月、ペニャさんが15歳の頃、チリで軍事クーデターが勃発した。ピノチェト率いる軍事独裁政権は17年続き、3000人以上が拷問によって死亡・行方不明になったとされる。
ペニャさんの父親は、その軍部の左派狩りに協力させられた。軍事政権崩壊後、真実和解委員会が立ち上げられると、ペニャさんの父親は自らが目にしてきた軍の虐殺行為について証言をした。すると軍の支持者からは「裏切り者」、迫害を受けてきた側からは「軍の協力者」とみなされ、一家は命を追われる対象になった。
 
ペニャさんも、チリの料理コンテストで優勝したことが新聞やテレビで報じられ、極右集団に居場所が知れわたってしまう。
ある日の仕事終わり、店を出ると見知らぬ男たちに囲まれ、拉致された。男たちはペニャさんを裸にして棍棒や鎖で殴り続けた。そして池のようになった冷たい血だまりの中に放置された。

チリで拷問を受けたときの自画像 体中に鎖の痕が遺り、耳から血が噴き出している


「もはや母国で安心して生きていける場所はない」と外に居場所を探し、日本に逃れてきた。