空襲で空が真っ赤になった高松を描いた絵

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(池田實さん(88))
「しばらく静寂があってもう終わったなと思って一機のB29の音が聴こえて来たもんだから低空飛行でそのB29が本当にわが家の真上を飛んで作業所に爆弾を落として飛び去って行く、これがもう最後ですから高松空襲の最後の爆弾はわが家だったと思います」

高松空襲の語り部を20年にわたって続ける、池田實さんです。

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北京郊外の盧溝橋での日本軍と中国軍の衝突が日中戦争に発展した1937年。池田さんは、高松市塩上町で漆器工場を営む家に生まれ、戦時体制の中、幼少期を過ごしました。

(池田實さん)
「いわゆる軍国主義ですから子どもの学校の生活から人生そのものがみんな個人の自由なんてありませんから『欲しがりません勝つまでは』...

こういう雰囲気でした大きくなったら何になりますかと言ったら『陸軍大将』『海軍大将』とみんなが言うような状況でしたし、(太平洋戦争)末期は小学校2年生でしたけど運動場が芋畑になって授業しているより体操の時間なんていうのは農作業しているみたいな状況でした」