コロナ感染を特別視せず許容できるか「我々市民の問題でもある」
―――城戸教授は、「保険制度、医療体制がコロナを特別視せずに対応できるか」が、これからの鍵じゃないかと見ています。
大前提として、残念ながらこれからも感染の波はあり、それによって残念ながら亡くなってしまう人の波も続くと思います。日本は国民皆保険制度により、誰でも病院にアクセスできます。しかしそれは、「いつも同程度の人が病院に行く」ということで成り立っていた世界なんですが、急激に感染の波が増えたときに、みんなが病院に押し寄せると、それはもう受け入れられる体制ではなくなったんです。
その代わり、医療というのは病院で特別なものだったんですけれど、例えば検査が薬局で可能になったという時代に少々変わってきました。医療を解放してきたわけですが、次にインフルエンザなり、コロナの陽性になったときに、薬はどこからもらえるんだということが次の問題になってきますから、それが自己完結できるような仕組みにならないと、常に病院が足らないということに繋がると思います。そういう体制を作りましょうというのが一つです。
―――ポイントは「コロナに感染することを特別視せずに許容できるか」と。
はい。一つ目は、日本の医療のシステムをどうするかという問題。二つ目は我々市民の問題です。過去はみんなが怖がって、自分が感染するのが嫌、近くの人が感染するのも嫌、知らない人から感染を受けるのも嫌という世界だったわけです。しかし、世界で広がって止まらない以上、どこかで、感染する可能性もあったねということを許容しなければならない社会が来ると思います。既に多くの人の考え方は変わってきていると思いますが、それが「社会で受け入れられるかどうか」というのが鍵です。
―――どうやって社会で受け止めていくか、豊田真由子さんのお考えは。
(法や制度は)ウイルスや感染症がどれぐらい危険か、その分類によってどれぐらい厳しい措置を取れるかを緻密に決めていて、それは人権や自由を大きく制限することになるので、「危険性が高い感染症だから、人権侵害を許容しましょう」という仕組みになっています。その危険性が変わっているならば、国民の権利を守るという観点から、変えていかなきゃいけないと思う。
ただ、水際対策ができなくなるということや、ワクチンの公費負担をどう考えるかってところもありますから、基本的な考え方は、「この感染症はどういう感染症かっていう事実」と、それに対して「国民がどこまで犠牲も含めて受け入れて共存することを覚悟するか」っていう、まさに心構えと体制の両アプローチかと思います。
―――城戸教授は。
コロナ前は誰でもクリニックで受診できたのに、「発熱外来」になって受診できなくなりました。身近な感染症なら、感染の診断と治療を自分ができる範囲内でやろうというのが私はできる最大限の今の体制かなと考えます。














