"母ちゃんが服の1つも買うてやれんもんし—逆に私に謝るのです"
ここまで私が体験したことを話してきましたが、一緒に拉致された母(ミヨシさん拉致当時46歳)がどうなっているのか、未だに事実が解明されていません。
日本で生活していればまだまだ元気で畑仕事などをしていたかもしれないと想像しています。ただ先ほども話した通り、北で病気になれば、どんな状態になるか分かりませんし、良くないことは想像しないようにしています。
母を思い出す時、母を語る時、私の脳裏にはいつも同じ姿が浮かんでいます。
朝早くから夜遅くまで、身を粉にして働き通した姿です。当時は田んぼも耕作していたので、朝仕事をした後私たちに食事を食べさせ、学校へ送り出し、母も慌ただしく朝食を取ると、工場へ出勤していきました。仕事を終え家に帰ってから夕食の支度、片付け、一休みをする間もなくザルを作る内職をするのです。
なぜ母がこのように昼夜なく働くことになったかと言うと、父がバイク事故の後遺症で働けなくなったからです。私の家は貧しく、母が朝早くから深夜まで働いても家計が楽になることはありませんでした。
そんな生活状態でも母は決して愚痴などこぼしたことがありませんでした。それどころか私たちにはとても明るく振る舞い、少々悪いことをしても怒ることもありませんでした。自分のことはいつも後回しで、1番に子供のことを考えてくれる、とても優しく愛情をいっぱい注いでくれるそんな人でした。
遠足の時、奮発していろんなおかずを作って弁当を持たせてくれました。私はただただ喜ぶだけでしたが、当時母の弁当のおかずは、すごく辛い漬け物が少し入っていただけでした。
「どうして母ちゃんは漬け物だけなの」と聞けば、「おかずが辛いからご飯がいっぱい食べられるからだよ」と言うのです。母もいろんなおかずが食べたかっただろうに我慢していたんだなと、今なら母の気持ちがよく理解できます。
また友達が新しいセーターを着て学校で自慢しているのを見て羨ましくなり、家のタンスに隠してあったお金を持ち出し勝手にセーターを買ってしまったこともありました。母に気づかれてしまったのですが、母は私を叱らなかったのです。
「母ちゃんが服の1つも買うてやれんもんし、ひとみが1人で買うてきたんだな、堪忍な、堪忍な」と、逆に私に謝るのです。
この時ばかりはなんてことをしてしまったんだろう、2度としてはいけないと反省しました。頭ごなしに怒られるより心に深く突き刺さる母の言葉に、私はただ泣きじゃくるばかりでした。
またある年の夏、盆踊りに行くことになりました。友達はみんな浴衣を着ていくというので、羨ましい気持ちと仲間外れになりたくないという気持ちが同時に湧いてきました。
母の都合など考えもせず「浴衣を縫って」とわがままを言いました。当時の母は和服の裁縫が得意だったのを知っていたからなのですが、文句も言わず母は夜なべをして浴衣を縫ってくれたのでした。
今思い出しても本当に、母には無理ばかりさせたなと反省と感謝の気持ちでいっぱいです。
私の知る限りでは、母の写真は両手で数えるぐらいしか残っていません。生活に追われ、働き詰めの毎日でおしゃれの1つもできなかったからなのでしょう。
今私は、母のいなくなった時の年齢をはるかに超えてしまいました。今の私なら母のわがままを受け止めることができるのではないかと思います。
だから母には、あの時言えなかった愚痴をこぼしてもらいたい。本当の気持ちを話してほしいと思っています。














