戦犯として処刑され、スガモプリズンから搬出された遺体はどこへ運ばれたのか。1950年4月7日、スガモプリズンで最後に処刑された石垣島事件7人のうちのひとり、山形市にある幕田稔大尉の生家には、遺骨返還を求めた母に対する米軍の回答文書が残されていた。「既定によって返すことはできない」。では遺骨はどう扱われたのか。法務省参与として、戦犯裁判の調査にあたった元陸軍大佐が、終戦30年の節目に明かした秘話があったー。
日本の占領が終わった直後に届いた返事
太平洋戦争末期の1945年4月、沖縄県の石垣島で米軍機搭乗員3人が殺害された石垣島事件で、搭乗員1人を斬首したとして死刑の判決を受け、31歳で命を絶たれた幕田稔大尉。幕田の母トメは、夫をシベリア抑留で亡くし、終戦から5年も経って、さらに息子を失った。スガモプリズン最後の処刑となった1950年4月7日から3回忌を迎えても、息子の遺骨は帰ってこなかった。山形市の幕田の生家に残された資料の中に、1952年5月2日の日付が入った米軍の文書があった。息子の遺骨の返還を米軍に求めたトメへの返事だった。封筒には連合軍郵便のスタンプが押され、東京の消印が5月5日、山形の消印が5月6日と打たれている。
日本は1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約を締結。翌年1952年4月28日に発効して、国際社会に復帰した。つまり、トメに返事が届いたのは、約7年間に及んだ連合国による占領が終了し、日本が主権国家として独立を回復した直後だった。平和条約発効によって、明るくなっていた世間の空気の中で届いた文書は、トメを落胆させるものだった。















