太平洋戦争中、大勢の子どもを乗せたままアメリカ軍の攻撃で沈没した対馬丸についてです。最新の海底調査で、沈没に至る経緯が見えてきました。この調査を実現させたのは、遺族の執念とも言える強い思いでした。
「怒りを通り越している」1484人が乗った学童疎開船を攻撃され… 国に隠された対馬丸の悲劇
2025年、一隻の調査船が鹿児島県のトカラ列島の海にいた。

悪石島が見える。船から降ろされているのは、海底を調べる無人探査機。戦後80年にあたり、異例のプロジェクトが実施された。

目指すのは、深海870メートルに沈む学童疎開船「対馬丸」だ。
1944年7月、サイパンが陥落。
「次は沖縄だ」そう判断した日本政府は疎開を進めることを決定。沖縄の子どもたちは「対馬丸」に乗った。
しかし、8月22日の夜、アメリカ軍の魚雷攻撃を受け、暗い海の底へと沈んだ。
アメリカ軍は日本の補給路を断つため、人や物を運ぶ輸送船を徹底的に狙っていたのだ。

犠牲者は、分かっているだけで1484人。その半数以上にあたる784人が未来ある学童だった。太平洋戦争における船舶被害の中でも、これほど凄惨な悲劇は他に類をみない。

2014年、対馬丸記念館に上皇ご夫妻が訪れ、2025年には天皇ご一家が訪れ、命を落とした子どもたちに、祈りを捧げられている。
しかし、対馬丸はどのように沈没に至ったかなど、長年、謎に包まれてきた。
そんな中、2025年、遺族たちの切実な思いを受け大規模な海底調査が行われた。
対馬丸事件を語り継ぐ数少ない生存者。髙良政勝(たから・まさかつ)さん、85歳。当時4歳だった。

「対馬丸」生存者 髙良政勝さん(85歳)
「私が今ここにあるのは、親父が自分の命をかけて、3日間抱き抱えていたおかげだと思います」

父親の政一(せいいち)さんは、髙良さんの命を救ったが、自らは力尽き、海に沈んでいった。
髙良政勝さん(85)
「兄弟9名と両親、11名が対馬丸に乗った。助かったのは私と姉の2人だけ」
しかし、戦時下では家族の死を悲しむことさえ許されなかった。国は「箝口令」を敷き、対馬丸沈没の事実を徹底的に隠そうとしたのだ。

その実態を伝える、1通の手紙が残されている。
事件前から、すでに鹿児島の学校に行っていた長男が対馬丸の沈没を伝えるために沖縄の祖父母に宛てて書いた手紙だ。そこにはこんな一文があった。
長男(髙良政弘さん)からの手紙
「これまでのことは一行たりとも隣近所の者に知らしてはなりません。極秘です」
1500人近くが犠牲者になった事実が明るみに出れば、疎開事業が進まなくなる。
本土決戦に備え、沖縄から民間人を減らし、日本軍の食糧や、活動場所を確保する。 そのためには、対馬丸の悲劇は「なかったこと」にしなければならなかったのだ。
髙良さんの兄は検閲で没収されるのを防ぐため、郵便ではなく、知人に手紙を託していた。

髙良政勝さん(85)
「(祖父母の)名前がない。住所がない。切手貼られてない。戦争で犠牲になった兄弟たちのことが書いてありますから国にとっては非常に嫌な手紙になる。ですから没収(対象)です。怒りを通り越してます。『安全なところへ連れて行きます』ということで、船に乗せられてやられたら。怒りをぶつけるところない」














