<東日本大震災が3月11日に発生し、きょうで7日目を迎えた。ようやく日記を書くことができる。ここにくるまで多くの悲しみ、悩み、迷い、決断があった…>
陸前高田市立第一中学校の避難所で実質的なリーダーを務めていた高橋勇樹さん(当時33)は、当時の日記を今も大切に保管している。母親の安否がわからない中、高橋さんは、被災者自身による「自立」にこだわり続け、地元の人たちによる避難所運営に奔走した。15年前の日記には自身を奮い立たせるように書き殴られた「葛藤」の記録も残されている。
(取材・TBSテレビ社会部 櫻井雄亮)

震災当日 避難所運営のきっかけとなった「母の声」
2011年3月11日の朝。祖父の代から続く「桜木家具店」の常務だった高橋さんは、理事長を務める青年会議所(JC)の会合のため、陸前高田にある店を慌ただしく出ようとしていた。
<今思うと、あの11日、店を出るときに母が言った言葉「あんまり急ぐなよ!!」が私の頭の中にまだ残っているが、顔は思い出せない…あの時、いつものようにぶっきらぼうに、足早に店をあとにしたのが、くやまれる…>(日記:3月11日の記録)
いつものような、そっけない別れ。その数時間後、高橋さんは花巻市で激しい揺れに遭う。母の携帯電話に何度も電話したが繋がらない。陸前高田へと車を走らせたが、午後4時半頃に辿り着いた地元の風景は一変していた。海から数キロ離れた川にまで瓦礫が散乱していた。自宅も会社も津波で跡形も無く流されたことを後に知る。
<高田の町が一変してしまった。たった数時間に…これはゲームでも映画でもない…まぎれもない事実…家がないということは父、母はどこにいるのか>(3月11日の記録)
市街地には車で入れず、泥に覆われた道を歩いた。ようやくたどり着いた避難所の第一中学校に、母や従業員の姿はなかった。
体育館では数百人が身を寄せ合い、発電機の投光器とストーブの明かりだけが頼りだった。「みんな下を向いて、すごい暗い雰囲気だった」。高橋さんは当時の避難所の雰囲気をこう振り返る。
母は別の場所にいるかもしれない。高橋さんが中学校を出ようとしたとき、ふと母の声が聞こえた気がした。
<その時だった…ふと誰かの声がきこえた気がした。「おまえに出来ることがあるだろ!!」この言葉が本当に聞こえた。私にできること、それはあの名簿をデータ化して、今後必要になるであろう避難者の一覧名簿をつくること。>(3月11日の記録)
高橋さんは車に偶然パソコンとプリンターを積んでいたことを思い出し、手書きだった避難者名簿をエクセルに打ちこみデータ化を始めた。市内で一番大きな避難所となっている第一中学校に残れば父や母に必ず会える。そう信じて、作業に没頭した。
<睡眠時間は2〜3時間程度だったと思う。ひたすらデータ入力をした。母の無事、父の無事、従業員の無事を願って。それが1日目だった。本当に現実離れした1日だった。>(3月11日の記録)

















