《出撃直前まで行動を共にした元特攻隊員が札幌に…》
札幌オリンピックが開催中止となり、久保登喜夫さんは旧制小樽中学を卒業すると、札幌鉄道局(現・JR北海道)で働き始めた。しかし、ジャンプの実力を惜しむ声が高まり、周囲の支援を受けて明治大学に進学する。スキー部に所属した登喜夫さんは活躍を続け、仲間たちと青春を謳歌する。
そして、1944年(昭和19)の学徒出陣で、旧日本海軍に徴兵されると、名古屋で編成された特攻隊『草薙隊』へ送られた。80人の隊員がいたが、終戦までに63人が戦死した。元隊員が、札幌に暮らしていると判った。今から8年前に亡くなった坂倉耕造さんだ。2014年の取材で、久保登喜夫さんについて証言している。
元特攻隊員 坂倉耕造さん(2014年当時・87歳)
(これに乗って行ったんですか?)「そう…特攻にはね」
取材当時、かつて『草薙隊』の隊員が搭乗していた九十九式艦上爆撃機、通称・九九艦爆の模型を、坂倉さんは大切に保存していた。
1945年(昭和20)4月28日、旧日本海軍が特攻隊の出撃拠点としていた『国分第二基地』(鹿児島県霧島市)で、坂倉耕造さんと久保登喜夫さんは、他の『草薙隊』の隊員とともに出撃の命令を待っていた。
元特攻隊員 坂倉耕造さん(当時87歳)
「登喜夫さんは小柄で、あまりしゃべらない、本当に大人しい人だった。彼は二番機で、俺は三番機だったからね。姿を見てはいたけど、会話する暇なんてないわ。特に俺の飛行機はエンジンがかからずもたついたから。だから自分は助かった」
《元特攻隊員「これが本当の戦争だ」…沖縄の空へ飛んだジャンパー》
元特攻隊員 坂倉耕造さん(当時87歳)
「特攻って言われても、ピンと来ないんだよ。(自分たちも)戦争を体験していないし、敵の飛行を見ていないし。それが前線基地に行ったら、敵の銃撃はあるし、爆撃はあるし、目の前で人は死ぬし…あー、これが本当の戦争だと思ったのは九州へ行ってからだね」

『草薙隊』の中では、ジャンプ選手であることも、オリンピックの有力候補の一人だったことも、久保登喜夫さんは、決して語らなかったという。
元特攻隊員 坂倉耕造さん(当時87歳)
「運動神経もいいし、飛行時間も少ない中でも操縦で選ばれいるんだからね。そうだねぇ…あの人だったら立派なジャンパーになっただろうな」















