《アジア圏初のオリンピック開催…テレビの実験構想も》

戦前の札幌オリンピックを控え、有力候補と見られていた、小樽出身の久保登喜夫さん。ジャンプ台から大きく腕を広げ、登喜夫さんが、空中に飛び出す瞬間の写真だ。
札幌オリンピックの開催期間は、1940年(昭和15)2月3日から12日まで。当時はまだ夢の技術だった、テレビ中継の実験構想もあった。札幌都心に中島公園に競技会場を新設して、アイススケートやアイスホッケーなどを実施。今も札幌市民の憩いの場である公園内の菖蒲池が、練習場とされていた。

ほかにも、中島公園には、フィギュアスケートの会場を設ける計画だった。そして札幌のマチを見渡せる幌見峠(ほろみとうげ)には、日本初のボブスレー・コースを建設。さらにジャンプ選手の晴れ舞台は、大倉山シャンツェに…。久保登喜夫さんも、札幌の空に飛び出すはずだった。

《日中戦争で異論が噴出…札幌と東京大会の開催権を返上》
だが、時代が開催を許されなかった。1937年(昭和12)に日中戦争が始まると、日本に対して国際社会から強い非難が集まり、国内では物資不足などが顕著になっていく。やがて、オリンピック開催について、軍部からも異論が噴出していった。
日本は結局、札幌と東京で決まっていた、1940年の冬と夏の大会について、IOCに開催権を返上。実現すれば、アジア圏初となるはずだった冬と夏のオリンピックは、戦争という時代に飲み込まれ、幻に終わった。















