戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。日本の占領下にあった中国の旧満州で終戦間際、2800人を超える日本人の子どもたちが孤児となりました。過酷な幼少期を乗り越え、帰国を果たした女性の戦後80年です。

鹿児島市の中村和子さん(84)。30年前に中国人の夫に先立たれ、1人で暮らしています。日本語はほとんど話せません。

戦時中、日本の占領下にあった旧満州。3歳で満州に渡り、中心都市の瀋陽で両親らと暮らしていました。

「母は花柄の白い和服を着ていた。父は軍人で、刀と銃を持っていて怖かった」

翌年、日本は敗戦。両親との暮らしは突如、終わりを告げます。

「父はいなくなり、母は私を見知らぬ男性に預けた。馬や牛の餌やりをさせられた」

手足はマイナス30度の極寒でただれてしまいました。

「靴はなかった。男性は私の手足を見て、家から追い出した」

孤児たちが19年前にまとめた証言集で中村さんは…

「どんなに母のことを思ったでしょう。目が覚めたとき、母はなく温かい家庭はなく、あるのは顔一杯に凍った涙だけでした」

その後、中国人の家庭を転々とし、日本人は「侵略者」とみなされ、差別や暴力も受けました。

「野宿した時、まわりは戦死者の血と死体だらけ。ひと晩泣いた」

肉親と離れておよそ1年。5歳くらいのころ、子どものいない中国人養父母と出会いました。4か所目の家庭でした。養父母は、中村さんを「李桂和」と名づけ、小学校に通うこともできました。

日中国交正常化をきっかけに、孤児の身元調査が進展。中村さんの両親の手がかりは見つからなかったものの、48歳で帰国し、身元引受人がいる鹿児島市で暮らすことにしました。

「祖国に行ってみたかった。だって日本人だから。日本名は李桂和の『和』をとって、中村和子にした」

中国の養父母に感謝を込めて、孤児らが建てた石碑です。

日中は今、出口の見えない緊張関係にあります。

「心配。再び戦争が起きたら、一番苦しむのは日中の国民。私にとって、中国も日本も故郷なんです」

残留孤児の人生は、戦争と侵略のむごさを伝えています。