「子どもは欲しかったけど、これが運命」100歳が語る過酷な半生
(中田敦子記者)
「この半年間の取材の中で、私はある入所者の方と出会いました。長島愛生園の最高齢、100歳の女性です。100歳とは思えないほどお元気で、ご自身の人生についてたくさんのことを語ってくださいました。
ハワイで生まれ、幼い頃に母を亡くし、父も行方不明になったため、親族のいる沖縄へ移りました。その後、叔母の家での暮らしが嫌になり、一人で大阪へ渡ったそうです。
1944年、大阪の軍需工場で働いている時にハンセン病と診断され、長島愛生園に連れてこられました。その時、医師から『3か月で帰れるから、もっといい病院に行こう』と騙されたと話してくれました。
女性が入所したのは、戦時中の食糧難の時代でした。腐りかけの芋や、米粒が数えるほどしか入っていないお粥ばかりを食べていたと言います。飢えや病気で亡くなる方が後を絶たず、火葬が追いつかずにたくさんの遺体が墓地に置かれているのを見たそうです。
私が最も衝撃を受けたのは、結婚はしたけれど子どもを持てなかったというお話でした。食糧難の時代、いつ死ぬか分からないという恐怖から、農園を持つ男性と結婚しました。しかし、園内には『子どもを作ってはいけない』というルールがありました。
国が、不良な遺伝子を残さないために定めた旧優生保護法ができるずっと前から、長島愛生園では断種手術が行われており、結婚する男女はこの手術を受けなければなりませんでした。夫は手術を受け、女性自身も『子どもは欲しかったけど、これが運命だから』と受け入れるしかなかったと、静かに語っていました。
結婚後の数年間を十坪住宅と呼ばれる木造平屋で過ごしました。ここは6畳間に夫婦2組、つまり4人が暮らすという、信じられないほど窮屈な住まいでした。
女性が入居した時、すでに見知らぬ夫婦が住んでおり、夫婦喧嘩が絶えず辛かったと振り返ります。『布団の端と端が重なって足が触れて恥ずかしかった』とも話してくれました。














