今年10月1日、アントニオ猪木氏が心不全で亡くなった。79歳だった。
プロレスラーや政治家として広く国民に愛された猪木氏だが、亡くなる3か月前、体力が次第に衰えていく中、ある一人の男性を探し出し32年ぶりの再会を果たしていた。猪木氏のプライベートでの外出はこの日が最後だったそうだ。
「猪木さんは体調を悪くしているけど、もう一回会いたいと言ってくれたんです。戦友みたいに思って頂いたんじゃないかなと思います」ー
男性が、TBSテレビ系「報道の日2022」の取材に応じ、猪木氏との“最期の面会”について語った。
■“戦友”との32年ぶりの再会

記者:
32年ぶりの再会ということですが、どのような経緯だったのですか?
野崎和夫さん:
イラクで共に過ごした後、互いに忙しく会えない間に連絡先が分からなくなっていたんですね。そうしたら猪木さんが一生懸命探してくれたようで、関係者の方から連絡があって「猪木さんが、体調が悪いけれど、もう一度お会いしたいと言っている」と言ってくれて、私も「喜んで行きます」と答えて、32年ぶりに再会を果たすことが出来ました。
-面会が行われたのは、猪木氏が亡くなる約3か月前の7月11日。15分間の予定が1時間になるほど盛り上がったというー
■出会いは32年前 湾岸戦争直前のイラク

猪木氏が再会を望んだ男性の名前は野崎和夫さん(77)。2人の出会いは32年前、1990年9月イラクだった。
同年8月、イラクは石油資源を巡りクウェートに侵攻。日本人213人を人質に取り「人間の盾」とする事件を起こしていた。
日本政府が人質解放の糸口を見出せない中、現職の国会議員としてイラクに赴き人質救出に動いたのが猪木氏だった。そして、現地の日本人会の副会長として、人質救出に尽力していたのが伊藤忠商事の駐在員・野崎和夫さんだった。
猪木氏は人質解放に向けた一つの策として、イラクでスポーツや音楽による「平和の祭典」を開催するのだが、野崎さんは商社マンとして築いてきた独自のルートを駆使して協力したほか、時には通訳をするなどして猪木氏をバックアップ。猪木氏の良き理解者として人質解放のため奔走し、そこで親交を深めた。
■猪木氏の“密使” フセイン大統領宛の手紙

「平和の祭典」は大盛況で終わる。しかし、人質解放の糸口を見出せないまま猪木氏は帰国の日を迎えていた。
この日、猪木氏は一縷の望みをかけ、フセイン大統領宛の手紙を野崎さんに託す。
そして、手紙を受け取った野崎さんは、言わば“密使”としてフセイン大統領の側近に手紙を手渡すことになる。側近は「確かに渡します」とだけ答えたそうだが、この時、野崎さんは人質解放に向けた動きがあるのではないかと直感したという。そしてー
■人質事件発生から112日 全員解放

猪木氏のフセイン大統領宛の手紙が、人質解放の決め手となったのかは定かではないが、翌日、残されていた全ての人質が解放されることになる。
そして、人質達は猪木氏と共に帰国すると、日本で待つ家族等と再会を果たした。
この1か月後、湾岸戦争が開戦。まさにギリギリのタイミングだった。