戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。つらい記憶を後世に残そうとした戦争体験者がいます。ある寺の住職が戦時中の市民の日常をつづった日誌。そこには、私たちが受け継ぐべき「ことば」があります。

山口県和木町の養専寺。旧岩国陸軍燃料廠と興亜石油の空襲で亡くなった人たちをしのぶ慰霊碑があり、毎年、空襲があった5月10日には追悼法要が行われています。

この寺の住職・元浄公昭さんの祖父・正信さんは、戦時中も欠かさず日々の出来事を日誌に記していました。日常が次第に戦争へと導かれ、後戻りできない時代の空気となっていく様が伝わってきます。

「昭和18年1月10日、警察より明日(鐘の)取り下ろしをなさんと通知あり」
「寺院境内地に尊厳を汚さぬ範囲において食糧品を植える事」
「降誕会法要、本年は御供えの蝋燭無く、菓子・果物もない。祝いの酒肴なく淋しい」

そして、昭和20年5月10日。

「B29十一機編隊が西の山上より来襲、陸燃に爆弾を投下」

広島県の宮田幸三さん(95)。15歳のとき、旧岩国陸軍燃料廠で働いていて、空襲に遭いました。

宮田幸三さん
「爆弾が雨あられのごとく、たったたった。出刃包丁のようにとんがっている」

黒煙で真っ暗な中、幼なじみの同僚を捜し歩いて、ようやく会うことができました。そのときの心境は、今も忘れられないといいます。

米寿を迎えた年、宮田さんは「追憶の記」と題した戦争体験をまとめました。

宮田幸三さん
「私たちはそれを後世に残すという責務があります。亡くなっておれば、私はいません。最高の人生を送らせてもらっています」

国民の多くが敗戦の空気を感じるようになった終戦2か月前、正信さんの日誌には妻と交わした会話がつづられていました。

「夕食に辰子いわく『こうして夫婦二人の食事も、いつまで続くかわからず、いつお互いに別れるかわかりませんね』」

養専寺 元浄公昭 住職
「戦争は奪い合いだと思う。平和はある面、譲り合いかな。それも育てていくものかなと思う、平和というのは。ちゃんと水をやったり、栄養を与えてあげたり、それがどういうことをすることなのか、一生懸命みんなで考え合わせていく」

今を戦前にしない毎日を積み重ねていく。戦後を生きる私たちに課せられています。