戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。「ありったけの地獄を集めた」と言われる沖縄の地上戦。目の前で家族全員を失った女性はまもなく100歳を迎える今でも、その体験が自身に暗い影を落としているといいます。
100歳を迎える市民をお祝いするために訪れた那覇市長にピアノを披露した上原史子さん(99)。
長寿を祝う場でまず口にしたのは自らの辛い戦争体験でした。
上原史子さん
「この戦争で、家族が全滅した。私1人生き残ったので、当時は1人生き残るよりは、みんなと一緒に死んだ方がよかったという後悔もあった」
那覇市で生まれ、裕福な家庭で育ちましたが、沖縄県立第二高等女学校を卒業するころには着実に戦争の足音が近づいていました。
父親が当時営んでいた工場には日本軍が駐屯しており、戦火が迫ってくると南部へと逃げるよう促されました。
家族を一度に失った場所は、戦後長らく見つけることができませんでしたが、2018年、地域の人たちの協力などもあって特定に至りました。
上原史子さん
「ここら辺、全部死体でした。体があっちで足がここら辺に、切れているとか、もう死体が重なっている」
5人きょうだいの末っ子、四女として生まれた史子さん。台湾に出征した兄らを除く家族5人で、戦火を逃れるため沖縄本島の南部へと向かいました。
しかし6月18日、1発の砲弾が家族の命を奪いました。
上原史子さん
「私はちょっと離れていただけで、至近弾があたった。2メートルぐらいですかね、飛ばされて、“全員死んだんだな”、それから私はもう、生きるという希望がない」
自らも砲弾の破片が右腕に刺さるなど大けがをした史子さん。なんとか近くの壕に逃れ、その後アメリカ軍の捕虜となりました。
80年経った今でも、家族を亡くした瞬間は史子さんの人生に暗い影を落としています。
上原史子さん
「やっぱり(家族を失った)6月になると、私、だいぶ変わってきますからね。精神的になるべく考えないように、考えないようにと、努力はしている。だけど、寝る時が一番困る。それ(家族が亡くなった瞬間)が頭に浮かんでくる」
戦後は4人の子どもにも恵まれ、現在は孫やひ孫に囲まれて暮らす日々。戦後がいつまでも続くことを願っています。
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