英語が “敵の言葉” になった日
俊子さんは1942年、12歳の時、英語を学ぶため沖縄県立第一高等女学校に入学した。しかし、戦争の影が学びの場にも忍び寄る。
「月謝も高いのに、英語が廃止なんて。敵対語だからだめ、と」
楽しみにしていた英語の授業は、戦争の影響で廃止されてしまった。
さらに1944年、那覇の町を襲った10・10空襲では、当時から那覇の中心街だった久茂地の実家が全焼。家族は、自宅の裏手にあった防空壕に逃げ込み、九死に一生を得た。
「私の家の隣に空き地があって、空き地の隣にね、憲兵分隊があったの。飛行機から見られて、焼夷弾がパラパラと。私の家の前はみんな、木造の家で、目の前で火事」
俊子さんは今でも、女学生時代に歌った歌集を大切にしている。中身はどれも「軍国の歌」だ。昭和19年5月の文字がある歌集をめくると、日本海軍の逞しさを強調する軍歌の歌詞が踊る。
…海の男の艦隊勤務 月月火水木金金
「我々はそれで築かれてきた、育てられてきたの」














