ロシア人捕虜を“丁寧に扱うよう”お達しが
「私は直接本人に会ったことはありません」と切り出し、すべては自身のおじいちゃんから伝え聞いたのだと話していた。

日露戦争で敗れたロシア。満州で日本の捕虜となり連行された曾祖父。船で日本に運ばれ、名古屋の瑞穂区にあった収容所に入れられた。
当時は是が非でも、国際社会に認められたかった日本。捕虜の処遇などを国際的に取り決めたハーグ条約を批准して間もない時期だったため、国際的な地位を高めようと、捕虜の扱いにはかなり配慮していたことも伺える。戦争中の捕虜の扱いを示した「俘虜取扱規則」を守るために、必死だったのだろう。ロシア人捕虜を丁寧に扱うよう全国にお達しが出されたようだった。
西洋化を目指した明治の文明開化から36年、捕虜の扱い方ひとつとっても、日本の懸命さが伝わってくる。そのおかげもあって、生活は劣悪なものではなく、シベリア抑留のそれとは全く異なっていた。
しかも、生活は自由だった。俄には信じ難いが、日中は街に自由に繰り出すことも許されていたという。














