「残されたのはこれだけ」父・母・弟たちの血液を自分の体に刷り込んだ16歳のあの日

富美子さんは、16歳の時、学徒動員先だった長崎港外の香焼島の川南造船所で被爆しました。


7人家族だった富美子さん。家は、爆心地からわずか200メートルの駒場町2丁目(現在は松山町)にありました。

現在、長崎市民総合プールの建物がある場所です。

富美子さんは、香焼から船で渡った後、自宅を目指し歩きました。

森田 富美子 さん「誰も通ってらっしゃらないけど、ものすごく体型のいい男性と会ったんです。その方が、全身の肌を引きずったようにして」

その人を見た途端、何も感じなくなったという富美子さんー。

森田 富美子 さん「グラウンド(三菱陸上競技場)から見たら、もう全然建物がなくなってましたから、ああ、我が家もダメ…と思って。(家族の)誰かが横穴(防空壕)にいるんじゃないかと」

駒場町の住民用に作られた横穴防空壕は、自宅から500メートル離れた油木にありました。

森田 富美子 さん「(防空壕の)中から『みんな死んだ、みんな死んだ』って、14歳の妹が来て」

妹は、8月1日に機銃掃射を受けた恐怖で防空壕から出られなくなっていたのです。

妹と二人、東小島のおばの家へ行き、富美子さんが駒場町の自宅に出向いたのは8月11日。被爆直後に家を見に行った妹から聞いた様子とは違っていました。


森田 富美子 さん「妹が見た父親とかは、生きているように感じたらしいんですね。でも、私が見た父親は真っ黒に焼けて、メガホンを首からさげたように、それも真っ黒に焼けて。母親は1年生の弟をしっかりと抱いて、妹の話しでは、抱いてきれいだったと言いますけど、私が見たのは真っ黒です。塊になっていました」

3年生の弟は、両手で掬えるくらいの黒い塊に。
5年生の弟は見つかりませんでした。

16歳の富美子さんは、家族4人をトタンの上に並べ、火葬しました。

森田 富美子 さん「燃えた(すす)で手が真っ黒。もちろん、父親とか兄弟とか母親の血液がいっぱいで、それで真っ黒になった手を『本当に残されたのはこれだけ』と思って、自分の体にしっかりと刷り込んで」