ーー数日後、ご家族に会ったときはどういう様子でしたか?

震災当時何より心配だったのが兄のことでした。兄には知的障害があって、1人でいたら逃げられないな、と震災当日もずっと考えていました。誰か助けてくれてるといいなとすごく思っていたんです。

実は最初に家に着いた時に迎えてくれたのが兄だったんです。一緒に逃げて下さった方がいらっしゃったみたいで、本当にその人たちに感謝しています。自分の命を守るのに精一杯な状況の中で、見ず知らずの兄に声をかけて一緒に逃げてくれた人がいるというのは、本当にありがたいなと思いました。

原田記者と4歳上の兄

■「回り巡って違う誰かに恩を返せる大人になりたい」災害を経験した記者としての決意


ーー原田さん自身もいろいろな方に支えられたそうですね。

とにかくあの日は雪が振っていて、すごく寒くて。薄着だったので、一緒に逃げた見ず知らずの人たちが、傘とか自分の上着とか靴とか、色々と貸してくれたんです。名前も知らない、知り合いではない人たちだったので、「これ、どうやって返せばいいですか」って聞いたら、「回り巡って違う誰かに返してくれればいいから」って言ってくれたんです。

それがすごく有難くて、自分も「回り巡って、誰かにあのときの恩を返せる大人になりたいな」っていうのが、記者になった理由の一つでもあるんです。自分が大変な中で、そこまで人のことを思いやれるかな?自分だったらできたかな?と今も思っていて。本当にいろんな人に助けられて、あの時、私は何にも返せなかったので。

石巻の日和山公園(2020年4月)

ーー震災からどんな影響を受けたと思いますか?

石巻に「日和山」という、春には桜が満開になって石巻の沿岸部の街を一望できる場所があるんですけど、そこが地元で一番好きな場所なんです。震災直後、友達に「あそこに登って景色を見ると、きっとショックを受けるから見ない方がいい」と言われて、見る勇気が出なかったんですけど、今は毎年欠かさずそこに行っています。

あそこに立つと10年の重みというか、生まれ育った町がこんなに大きく変わっちゃったんだなというのを改めて感じるとともに、あの時に感じた経験を無駄にしたくないなと。あの時の思いを糧に、記者として今後絶対起きる災害のために、そのとき1人でも多くの人を救うために、取材を続けていきたいなと思います。

震災直後のことは経験したけど、ずっと地元で「3.11」と向き合っていたわけじゃないから、それがすごくコンプレックスというか、後ろめたかったんです。でも記者になってからは、ずっと地元にいたわけじゃないからこそ逆に、「こういうところ変わったよな」とか、見えてくる課題があって。東京の会社にいて、とではない場所にいるからこそ、災害を経験していない人にも伝わる取材ができるんじゃないかなと日々思っています。


▼原田真衣記者
2015年にTBSテレビ入社。報道局社会部で警視庁や厚労省の担当を経て、2019年~東京2020大会組織委員会・都庁の取材を担当。
宮城県出身で、“復興五輪”をテーマにした企画取材や、東日本大震災で犠牲となった石巻市の英語教諭や木工作家の男性らを取材したドキュメンタリー「テイラー先生が遺したもの」などを制作。ほか民放各社で防災を考える番組などにも出演。