■三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」 実際に遭遇して感じたのは「困っている人がいたら助けずにはいられない」
ーー一度高台に避難した後に戻ったそうですね?
その時とにかく思い出したのが、「津波てんでんこ」という言葉です。「海の近くにいて大きな揺れがあったら必ず津波が来るから、他の人のことは気にせず、それぞれてんでバラバラに逃げろ」という言葉です。でも私は4メートルぐらいの高さの所に逃げた後、一度そこを下ったんです。というのも、だんだん津波が街に押し寄せてきて、人が流されてくるのが見えたので、下りて行ってみんなで必死で引っ張り上げました。
「津波てんでんこ」っていう言葉が、あの時自分たちを守ってくれたのかな、と思うんですけど、一方で、やっぱりああいう状況になると、困っている人がいたらみんな助けずにはいられないんだなと感じました。
その後、坂の上に地域の人たちが100人くらい逃げてきていて、焚き火をして一夜を過ごしました。当時、すごく雪が降っていて寒かったんですけど、あの焚火がなかったら恐らく、低体温症とかになって、無事ではいられなかったんじゃないかなと今でも思います。

ーーその晩はどのように過ごしましたか?
何度も行っていた学校の近くのレストランの店長さんや従業員の方と一緒に逃げたんですけど、どこがどういう被害なのか情報もなかったし、みんな連絡が全くつかなかったので、それぞれ家族は大丈夫かな、という話をしていました。私も携帯が水没してしまって家族と全く連絡がつかなかったので誰かのラジオを聞いていたんですけど、「どこどこ浜、壊滅状態」とか「人が流されている」みたいな話が響いていましたが、本当に今、何が起きているのか全く分からない状態でした。
夜が明けて明るくなった時に、生まれ育った町が、本当にもうぐちゃぐちゃで、教科書で見た戦時中の写真で見たような、焼け野原のような。ここが本当に自分の育った町かなって信じられなかったです。

■家族と連絡がとれたのは震災発生から3日後 何より心配していたのは”兄”のこと
ーー夜が明けた後、何をしたんですか?
翌日、少し波が引いた状態だったので、とにかく情報が欲しくて高校に向かいました。通い慣れた通学路はぐちゃぐちゃで、逃げようとして走っていた人とか、車を走らせた状態のままの人のご遺体があって、「大変なことが起きてるな」「これが現実なのかな?」と飲み込めない状態でした。
高校に避難して、先生や友達にも何人か会えたんですけど、家族には連絡がつかない日が続きました。震災から3日後にやっと波が引いてきて自宅の方に歩いて帰ることができたんですけど、あまりにも私に連絡がつかなかったので、母は顎ぐらいまで水に浸かりながら、街を歩いて探して、遺体安置所まで探しに行ったと後から聞いて、すごく心配かけたなと思いました。
