ローカル局を中心に様々なテレビ局を受け、その数20社以上に及びましたが、書類選考を通過しても、カメラテストや実技試験で落とされる苦しい日々が続いたそうです。
移動費や滞在費は馬鹿にならない。東京から日本各地へ飛び回るため、交通費だけで数万円が飛んでいく。
アルバイト代だけでは到底足りず、両親に何度もお願いして支援してもらったといい、「迷惑をかけている」という思いは、試験に臨むプレッシャーをさらに強くしたそうです。
中でも苦手だったのが…。
UTY 安福太郎アナウンサー:
「野球実況の試験は嫌でしたね…。いくら勉強しても細かい戦術や表現する言葉が頭に入らなくて、試験本番で必死に声を張るんですが、言葉が空回りしているんですよ」
試験の途中で駄目だと悟る瞬間があり、その場の空気の重さは今でも忘れられないとも言います。
就職活動は大学4年の年明け、1月まで続きました。
合格通知は一通も届かない。
気がつけば、全ての試験が終わり、夢は静かに閉ざされていったと言います。
「小学生からの夢が、ここで終わった」――その事実を受け入れるのは容易ではなく、空白の日々が続いたそうです。