戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。横浜海軍航空隊で飛行艇の整備にあたった男性。自身が整備した飛行艇が戦地から戻らなくなった現実に「仕方なさ」を感じていました。御年100歳の元整備兵が青春を捧げた戦争とは。

高知県香南市に住む西森理三さん、100歳。大正13年(1924年)に現在の津野町で生まれました。

西森理三さん
「『当然のこと』と思って(軍隊に)行ったわね、『お国のために働くのは当然のことだ』と。みんなにお祝いして、お見送りしてもらって、宴会もしてもらって、千人針も作ってもらって行くんだから、当時の状況としては『おめでとう、おめでとう』と言って、みんな送ってくれた」

西森さんは1944年、19歳の時に海軍に“志願”して入隊。新兵訓練を終えた西森さんは、神奈川の横浜海軍航空隊に配属されました。

西森さんが「整備兵」として飛行艇のエンジンの整備などにあたる中、同じ航空隊内では“ある飛行機”の整備が行われていました。

西森理三さん
「特攻機よね。特攻機を横浜航空隊の別の部隊で整備していた。それが試航するのに、何機も海の中へドボンと落ちてね。ろくな整備をしてなかったろうね。そんな飛行機が試航で合格した後は、どんどん現地へ行ったけど、それを見ていたときに『これはもう長いこと持たんわ』と思った」

西森さんが整備する「飛行艇」も次第に戦地から戻ってこなくなったといいます。しかし、そこで感じたのは「さみしさ」ではなく、「仕方なさ」でした。

西森理三さん
「『さみしい』というよりは、『またやられたな』『あれもやられたか』。人が戦死しても仕方ないと思っていた」

戦後80年が経とうとしている今、西森さんに海軍軍人の面影はどこにもありません。

軍人精神を文字通り叩き込まれ、仲間が戦死しても「仕方ない」と感じていた西森さんの価値観は80年という年月により大きく変わっていました。

西森理三さん
「今にしてみれば、青春はまっこと(本当に)お国のために費やしたなぁ。ひどい目にも遭ったし。『戦争したらダメだ』ということ、これぐらいみじめなものはないということだけは、知ってもらいたいわね。どんなことがあっても戦争したらいかん。戦争は最低じゃ」