9月開催の東京2025世界陸上の最重要選考競技会である日本選手権が、7月4~6日に東京・国立競技場で開催された。2日目の5日に行われた男子やり投で﨑山雄太(29、愛媛競技力本部)が87m16の日本歴代2位をマーク。世界陸上参加標準記録の85m50を突破し、代表に内定した。2位のディーン元気(33、ミズノ)も84m66と、従来の大会記録の84m54を上回った。﨑山は2年前のブダペスト世界陸上にも出場したが、予選で記録なしに終わっていた。日本選手権の快投で世界陸上入賞候補に躍り出た﨑山とは、どんな選手なのだろうか。

世界陸上ファイナリストのディーンを逆転

3投目終了時点では絵に描いたような混戦だった。長沼元(27、スズキ)、﨑山、巖優作(23、山陽特殊製鋼)の3人が79m台を投げていた。4投目以降に80mを少しでも超えた選手の優勝か、と思われた。

その雰囲気を破ったのがディーンの4投目だった。83m97と6mも記録を伸ばしてトップに立った。ディーンは12年に84m28(当時日本歴代3位)を投げ、同年のロンドン五輪では9位と入賞に迫った選手。ケガの影響で低迷期間があったが20年に84m05を投げて復調し、22年オレゴン世界陸上も9位と、近年の男子やり投を引っ張ってきた。4投目の記録でディーンが逃げ切ると、多くの人が感じたはずだ。ところが試技順が2つ後の﨑山が、83m56と追い上げ、勝負はわからなくなった。ディーンの5投目は記録を伸ばせなかった。

﨑山は「4投目の感覚が良かったので、同じように集中すれば標準記録くらい飛んでくれるかな」と考えて5投目に臨み、国立競技場の上空に大アーチを架けた。ウォーっという歓声がいつもより長く、それを聞いた﨑山も大記録を確信した。表示された数字は87m16。溝口和洋が87年にマークした全種目中2番目に古い日本記録、87m60に迫る日本歴代2位だった。

「最初に思ったのは日本記録(87m60)とおー(遠い)っということです。あの投げができても届かんのか、と思いました。でも87mという数字が出たことで自分のポテンシャル、88mくらいはいつでも投げられると言われていたので、それに近い記録を出せたことでひと安心しました」

ディーンが最終6投目に84m66と13年ぶりの自己新を投げたが、﨑山が初の日本選手権優勝を大記録で達成した。

かつての“一発屋”はスピードを生かした投てきが信条

﨑山は関西創価高(大阪)出身。高校では61m06がベストだったが、日大1年時の最初の試合で74m11と、一気に記録を伸ばした。高校時代は故障もあって試合で記録を出せなかったが、練習では「65mくらい」は投げていた。それでも大幅な記録更新で、その後は大学4年時まで自己記録を更新できなかった。

「“一発屋”、“生涯記録”などと揶揄されましたが、走るメニューや跳躍系の練習、ウエイトトレーニングを死ぬ気でやりました」

授業が5限まである日など、夜中の12時まで自主的に練習した。もともとスピードが特徴の選手だったが、そこに研きをかけると同時にパワーも徐々にアップさせていった。大学4年時に75m61と3年ぶりに自己記録を更新したが、練習では80m近い距離を投げていたことで、「社会人でも競技を続けよう」と考え始めた。

19年に愛媛県競技力向上対策本部に就職し、浜元一馬氏のコーチを受け始めた。浜元氏は09年ベルリン世界陸上で銅メダルを獲得した村上幸史を始め、今治明徳高で数多くのトップ選手を育てた指導者だ。﨑山も日大で、村上氏(当時日大コーチ)の指導を受けていた時期があった。スピードや跳躍力を生かした投てきを勧めたのも、村上氏だった。

﨑山は社会人1年目に79m13と80m14、二度自己記録を更新した。3年目(21年)には左足首の三角骨を手術するなど故障にも悩まされたが、4年目の22年には80m51と3年ぶりに自己新をマークした。そして5年目の23年5月に83m54を投げ、8月のブダペスト世界陸上に27歳で出場した。初めての日本代表だった。