今年で戦後80年。空襲で甚大な被害を受けた新潟県 長岡市で29日、犠牲者をしのぶ集いが開かれました。戦争を知る世代が少なくなる中、当時の記憶を次世代にどうつないでいくか課題です。

長岡市で開かれた追慕の集い。80年前に起きた長岡空襲の犠牲者をしのぶものです。

1945年8月1日の午後10時半、アメリカ軍のB29が爆撃を開始。

1時間40分に及ぶ空襲で16万発を超える爆弾が落とされ、市街地の8割が焼け、1488人の尊い命が奪われました。

当時7歳だった星野榮子さん 87歳。空襲の夜、必死の思いで近くの神社に逃げ込みました。

【長岡空襲を経験した星野榮子さん(87)】「周りから火の粉が降ってきました。どんどん激しくなって吹雪のように降ってくるのです。熱くて熱くてたまりませんでした。火の中から『母ちゃん!』と呼ぶ弟の声を、母は確かに聞いたそうです」

父親と弟が犠牲になりました。弟の遺体は、どこを探しても見つかりませんでした。

【長岡空襲を経験した星野榮子さん(87)】「見渡す限りの焼け野原でした。そして私の周りには、焼けて黒こげの遺体がいっぱい転がっていました」

そして、この日登壇したもう1人…
10歳のときに富山で空襲を経験した佐藤進さんです。

富山が被害を受けたのは、長岡空襲の開始からおよそ2時間後のことでした。

富山市の中心部にも焼夷弾が投下され、市街地の99.5パーセントが焼失。2700人以上が犠牲となりました。

【富山大空襲を経験した佐藤進さん(90)】「戦争を知らない子どもたちが大きくなって国を動かすようになったら“また戦争が起きてしまうんじゃないか”と、そう危惧される人もたくさんいます」

90歳の佐藤さんは、55歳の娘と17歳の孫とともに、親子3世代で語り部活動をしています。

【佐藤さんの孫 西田七虹さん(17)】「こうして今も、(戦争を)体験した人が亡くなられている状況で、だんだんその事実を語る人も少なくなっていて、それを継承する人も少なくなっています。

もし完全にこの活動が途絶えてしまったら、この悲劇を知る人が誰もいなくなってしまったらと考えると、すごく心が痛んで…その人たちの犠牲がなかったことにされるのがすごく悲しいです」

今年で戦後80年。

【参加した中学3年生は】「“知る”ということもすごく大事だと思うので、(戦争は)『やってはいけないんだ』ということを、友達や周りの人に伝えられるようになりたい」

戦争を知る世代が少なくなる中、当時の記憶を次世代にどうつないでいくか、全国で模索が続いています。